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舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

LA DANCE CONTRASTÉE「Madam B(マダム・ビー)」
ダンス・クラシックの醍醐味をモダンの味でみごとに調理
10月29日(金)~31日(日) 吉祥寺シアター

日下 四郎 [2010.11/5 updated]
ダンスの持つ醍醐味を全面に押したてながら、スマートで手際のいい演出でじっくり楽しませてくれたラ ダンス コントラステの第14回定期公演。いつもの繰り返しになるが、リーダー佐藤宏のセンスの良さが光った。タイトルの「マダム・ビー」は、プッチーニのオペラ「MADAM BUTTERFLY(蝶 々夫人)」を略したものだが、底意としては普遍的な男女の出会いと別離を描くという作者の意図が底意としてこめられていると見た。これをピンカートン(小 出顕太郎)の白の制服は別として、キモノ風デザインの衣装を身に付けた群舞とお蝶夫人(伊藤さよ子)の女性8名のクラシックダンサーをフルに動かして、ほとんどセットなしの空間に、モダンなタッチの1幕70分作品に仕立て上げている。

ふつう通俗劇とダンス・クラシックの組み合わせといえば、どうもステレオタイプで、途中欠伸のひとつも出かねない凡庸な作品を想像してしまうが、それをいかにもこの集団らしいコンテンポラリーな象徴的手法と演出で、ダンス本来の魅力をじっくりと強調して見せる力量は、職人風とはいえ間違いなく水準を抜く。ダンス・クラシックを基本としながら、そこへヴァリアントとユニゾンの効果をしっかりと加味し、セット自体もクロスした長い2本の白紙と、白の大きな布に、照明の変化を加えるだけで、巧みに状況の変化と主役たちの心理を表現するメソードは、この集団の持つモダンなセンスの産物と説明する以外にないだろう。

ダンス作家佐藤宏は、はじめこの作品に取り掛かるにあたって、原作でヒロインに不可欠の情緒として付与されている一切の「女性の清楚と 淑やかなどの概念」(プログラム・ノート)をとりはらい、大胆に女Bとアメリカ士官男性とがたどった出会いと別れの運命を、当初は「蝶々夫人(日本)を凌辱するピンカートン(西欧)」(〃)という、かなり大胆で野心的なテーマの下にフィーチャーすることを考えていたらしい。ただそこまではやはりうまくいかなかった。

その結果この定期公演を、春のアトリエ公演「ラ・ボエーム」「椿姫」に続く、オペラシリーズの線上でまとめ、プッチーニの曲をメインに、「ダイナミックで美しい踊り」として、モダンなタッチで演出して見せることに専念したようである。しかし結果的にはそれがよかった。というのも原作の ストーリーがあるから、観る側はいやでもバックに「お蝶夫人」のストーリーをイメージしながら観るし、事前に新規の設定や細かい説明を準備する必要もなく、ストレートに主題の中心へ、まっすぐ飛び込むことができたからである。これは振付・演出側にとっての、願ってもないアドバンテージだったといえるかもしれない。

さてこうしてラ ダンス コントラステの今年の定期公演「マダム ビー」は、世に知られたオペラの物語を軸に、ひたすらダンスの持つ表現の魅力を前面に押し出しながら、さる男女のドラマを描いた。そして「ある晴れた日に」のアリアを生かしながら、プッチーニにフィリップ・グラスのサウンドを混入させた音楽で、よく人体の動きに溶け込んだ雰囲気の裡に効果をあげた。

ここでのいちばんの問題は、やはり衣装のデザインだろう。これはバレエという西欧発の身体芸術を用いて、いわゆる“和もの”の素材に立 ち向かう時、必ずと言っていいほどぶつかる最初の関門である。今回も下半身がむきだしの2本足で、時としてチラチラと裸踊りのイメージを仏底することができなかった。ただこれがベッドシーンなどフロアに横臥して踊ると、ピタリ消えてなくなるから不思議。もっとも原作のオペラを公表している以上、時代の人物を総タイツで通すわけにもいくまい。ただしデコールないしペインティングを活用して、うまい逃げ道が他にあったかも知れない。バレエ衣装が引きずる今後の課題だろう。

その他の演出では、佐藤の発想と処置は今回も完全に及第点を突破している。このまま仮にコンテンポラリー-・ダンスの市場に出しても、そう不自然さもなく受け入れられるほどだ。記録によると、LA DANCE CONTRASTÉE の誕生は1996年で、新しいバレエを打ち出したいという佐藤と同じ意思を持つ3人のダンサーによって当初は結成されたのだという。翌年の第1回の出しものは、キリン・コンテンポラリーアワードを受けた「ウーベルチュール」。しかしフィールドを主に現代舞踊に置いていた私は、不勉強でこれを見ていない。

だいたい集団名にあるCONTRASTÉ(対比的)という文字は、クラシックとコンテンポラリーという2つの対立メソードを示唆しており、主宰者はそれを合体した新しい表現をターゲットとして掲げているのだ。しかしこの運動は初手からうまくいったわけではなく、当初はかなり厳しい批判を活字で読んだ覚えもある。だがその後重ねた努力が実って、数年前からは発表するどの年次の公演も、次第に評判をとるようになってきた。

私がこのバレエ集団を意識するようになったのは、今世紀に入ってからで、それも実際に劇場に足を運ぶようになったのは、ほんのここ数年の慣行に過ぎない。「Les Vierge」「Les Souris」「Le Noir」「En Suite / La Rue」「真夏の夜の幻」「REFLET」「Le Seau」etc。どちらかといえば小振りで地味だが、いちどこの欄でも取り上げたように、常にダンスを大事にした細部のセンスが光る。そして確実に自分たちの実力だけで、独自の近代バレエの誕生に情熱をかける姿勢が見えるのだ。それはひょっとして昨今声だけは高いが、やたら現代舞踊系のダンスがふりまくその場限りの無意味で自己陶酔ばかりの不可解な前衛作品より、よほどこの国のダンスの将来に貴重なプラスと寄与をもたらすようにも思えてくる。

その予感としての確信の根拠は、バレエ系の人がみな身体表現を大切にして、これを一義に据えてトレーニングに励み、その上に新しい振付 と表現の可能性を模索しているからだ。その点でいうとコンテンポラリー・ダンスを自認するフリー・ダンス系の多くが、人体そっちのけで、映像や電気サウンドなど、やたら付属のITテクノロジーの投入に没頭し、全くダンス不在のステージに自足しているからだ。コンテンポラリー系の舞踊家に、どこか全幅の信を託せない大きな理由のひとつでもある。あるいは21世紀に立ち現れるダンス芸術の将来は、バレエ系のダンサーたちの手によって、むしろその方の世界から芽生えるという予感さえ覚える。その一翼を担って〔LA DANCE CONTRASTÉE〕には、今後ともシャープで人の心を打つ快心のダンス作品を、次々と世に送りだしてくれることを、心から期待している。(30日マティネ所見)