.shtml> コラム:ダンスレビューVol.54:ダンス・舞踊専門サイト(VIDEO Co.)


D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

ダンスレビュー

NBAバレエ団公演 NEW DANCE HORIZON:
ゲストを生かした意欲十分の新作4本「桜の園」「元彼の結婚」「奇蹟の人」他
10/31日 東京芸術劇場 (中)

日下 四郎 [2010.11/17 updated]
実力と規模の点で、この国の中枢部を占めるいくつかのバレエ団のうち、このNBAは組織上のポジションで、バレエ協会や協議会には関係なく、NPOという独自の資格を持っている。したがってその体制下でバレエ作品上演の他に、コンクールやバレエ学校のカリキュラムなど、自前で独自の活動を維持している。それと関連があるのかどうか、作品のレパートリーやキャスティングにも、幅広く豊富で強い国際色のみられる点が、他のバレエ団と比べると、ひとつの大きな特色だ。

しかしバレエ団としての最終的な評価となると、やはりダンサーとスタッフが作り上げる舞台作品の出来如何にあることは言うまでもない。その点公演活動のシリーズには、すでに「トゥールヴィヨン」や「Golden Ballet Co-Star GALA」など、いくつかのダンスクラシックの芸術的な成果を目指す定期公演があるが、その中でこの「NEW DANCE HORIZON」のように、古典からさらに1歩も2歩も踏み出して、日本のダンス世界の将来をじっくり見据えようと模索する、オリジナル・ダンスへの強い意欲があることを、見落としてはなるまい。

それを成立させているのは、NBAのボードメンバーの掲げる方針や意思の問題だろうが、その心臓部とも言える企画・創作の中心に、安達哲治(芸術監督)と執行伸宜(芸術局長)という強力なスタッフを擁していることは大きい。ある意味では対極的な感性と個性の持ち主であるとも言える2人のアーティスト。彼らの狙いはバレエを単なる西欧渡来の耽美的テクニックの特区に閉じ込めず、常に日本の文化や社会とのアクティブな接点を模索する点だ。これが「NEW DANCE HORIZON」を貫く基本の姿勢であり、同時にその作品に現代との連携を失わないアクチュアリティを感じさせる所以でもある。

そこで2年に1度、つまりビエンナーレ形式をとるこのシリーズだが、前回の第9回にはとうとう日本の俳句をバレエ化するという愉快な冒険に乗り出した。小林一茶や与謝蕪村、松尾芭蕉の句を手がかりに、自由にイマジネーションを働かせ、それを安達や執行そしてゲストの中村恩恵らが、それぞれの持ち味を生かしたダンス作品を工夫して生み出したのである。ヴァライアティと機知に富んだ内容がおもしろく、私もそれに刺激されて、このレビュー欄(№21)でもとりあげた。

さて1年を準備期間に当てた第10回の「NEW DANCE HORIZON」だが、そのコンテンツとしては、今回は執行伸宜、若松美黄、安達哲治の3人の振付・演出による4本のオリジナルで挑戦した。副題には、“言葉と身体!人間の持つもっとも本能的な表現手段にこだわるBALLETTO” というキャッチフレーズが添えられている。いずれもバレエの創作に、正面から大胆にことば(セリフ)をとりいれて構成した作品である。ついでだがもう一つの注目は、ゲスト・コレオグラファーとして、現代舞踊界から若松美黄を起用している点だ。彼は協会の理事長という要職にあるが、いわばその立場を無視してというか、まったく問題にもせず参加している。10年ぐらい前までのこの国の慣習では、とても成立するとは思えない人選だが、一方ではいかにも彼らしい純粋なアーティストとしての所為だと考えられなくもない。あるいはこれはこれからの日本のダンス界を象徴する予兆的出来事かもしれない。芸術もまた間違いなく社会とともに変転していくのだ。

さて作品批評に入ろう。執筆サイドからのポイントとしては、やはり言葉と身体の関連がいちばんの問題となる。他のジャンルや同じジャンルでも日本舞踊などとは異なり、ヨーロッパ発のバレエ藝術では、セリフやナレーションはこれまで一切で無縁のものとして退けられてきた。その言葉をどう使い、どう生かすのか。伝達機能としての役割か、あるいはその象徴性に目をつけたのか。それが舞台が進行するにつけ、4作品4様であるところがそれなりにおもしろかった。

まずトップに組まれたプロローグと4場からなる「桜の園」。台本・振付を担った執行は、これを明確に演劇とバレエの両者に振り分けて、迷うことなく交互に振り分けて構成した。すなわち老女Aと老女Bが登場する2つの「病院の屋上」の場では、堂々と俳優座の現役(阿部百合子、松本潤子ほか)を起用し、したがって彼らが話すセリフも、これまでの現代ダンス作品などで時々耳にするような、あいまいで素人ゲイのようなものではなく、ちゃんとリアリズムに立脚した、明確で張りのあるプロの発声でその場面を終わりまで進めた。

これに続いて主人公である2人の老女が、それぞれに“想い出”や“幻想”として脳裡に描く1場と3場の景からは、言葉を完全にシャットアウト。視覚的にも群舞の迫力や映像の効果を用いながら、本来のバレエ作品としての美で空間を満たした。言葉と身体を景によって峻別した上、ある意味でいわば堂々と全体を2種の舞台構成で、交互に積み上げて全景を組み立てたわけである。

続く2本目の「枕詞に導かれた三つの踊り」(振付:執行)では、作者の姿勢は少し違って、ここでは和歌にみる枕詞の読み出し部分を、それぞれの踊りの冒頭に言葉の“右代表”として用いた1種の応用編である。すでにタイトルが説明しているように、最初に枕詞が映像と音声で先ず読まれ、その流れとイメージをうけて、あとはダンサー(振付者?)が自由に発想した動きの形で身体表現へと移行するのである。ここでは言葉はダンスへの誘い水の役割を担っている。3つの枕詞を基点に、ソロ、ドゥオ、トリオの3種のダンスでみせた。(出演:原嶋里会、菅原翠子、関口祐子)。

3番目に組まれた「元彼の結婚」と題した作品は、ガラリ雰囲気が変わる。才人若松が作詞。作曲・振付・台本・演出と、ほとんどすべての役割をひとりで引き受け、それをNBAのダンサーに踊らせる。元彼の結婚式で、女が捨て台詞を吐くという、ちょっとコント風味のバレエ。若松本人が出てこない舞台も珍しいが、そのためか作品がとたんにマイナー・レベルの軽演劇に感じられた。ストーリーを進行させているだけで、作者の主張がまったくない戯作の娯楽作品だからだ。式場に添えた歌(もちろん若松の作詞・作曲)ともども、禁忌を解かれた言葉が、大手を振って舞台のあちこちを闊歩している。

その点トリを受け持った安達の「奇蹟の人」は、言葉にからむある挿話をバレエで描いた逸品だ。ヘレン・ケラーの伝記に取材し、視力・聴力を失った彼女が、教師アニーの手引きで、“水”(WATER)という文字を手のひらに感じたその瞬間に、一気にメンタルな開眼へ到達するという、その前後のいきさつを動きに写しかえた。彼女の告白を推し広げて、そのきわどい一瞬を視覚化した創作である。ここでは言葉が人生のターニングポイントの役割を担っていて、物語の重要なキーではあるが、作者が創作に取り掛かった時点では、すでに解決済みの既定であって、作品の内部から生まれたものとはいえない。しかしここには言葉に対する作者の強い畏敬の念が感じられ、言葉と動きをテーマにした今回の「New Dance Horizon」にとっては、ごく普通の意味でもっとも正確に選び出した、そして真摯な題材の選択だったといえるかもしれない。作品の積み上げにも、芸術家としての安達の丹念と腕前がよく見えて、それだけですでに充分に目的を果たした創作になっている。

今回試みられた「もの言うダンス」への4つのトライアル。表現の形はさまざまだが、ここで“言葉と身体”という2つの要素は、いわば同一レベルの線上に対置され、両者は何の疑いもなく、自由に使い分けて用いられた。そのため各作品は見ていて実に分かりやすく、また創作に込められた今日的社会との接点が、より身近に感じられた点でも成功したと評価できる。しかしもっと本質的な意味においては、人間の所為においてこの2つの概念は互いに絡み合っていて、いま少し複雑で厄介なものである。ただし藝術表現としてのダンスの場合、これ以上踏み込むことは危険かもしれない。おそらくそれは哲学、人類学の問題だろうからである。気取らないそして気負わないNBAの今後の研鑽と活動に、今後ともとおおいに期待したい。(10/31日所見)