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整理され合理化された西ヨーロッパの楽法に飽きたらず、おのれの生地であるロシア大地の民族音楽やリズムを積極的に取り入れ、実に複雑多彩な曲想を樹ち立てたストラヴィンスキーの音楽。それがダンスと噛み合った時のイメージといえば、どうしてもディアギレフとの蜜月時代、あのバレエ・リュッス初期の大作「火の鳥」「ペトルーシュカ」、そして「春の祭典」などを思い起こす。5管編成のオーケストラに数十名もの群舞をぶつけた巨大な舞台風景だ。
そのスケールの大きさを、連弾用のピアノ演奏とはいえ、わずか男女2人のダンサーで受け止め、波打つパルスの嵐、破裂する打音の響きを、絶妙なバランスの上に立って踊り抜いたのが、平山オリジナルの「春の祭典」である。ちょうど2年前、同じこの新国立劇場の中ホールで初演され、現代舞踊には珍しいスタンディングオベーションや、エンドレスなカーテンコールを巻き起こしたあの興奮は、いまも記憶に新しい。 そしてその激しい観客の拍手の裡には、ダンサー平山だけが果たし得た、あの神技に近い身体表現への賛美とともに、この劇場空間の広いスペースを見事にこなしてみせた演出力への嗟嘆の念が、間違いなく入り混じっていた。正面左右に向かい合って置かれた2台のグランドピアノの雄姿、そして四手の連弾が終局のカデンツに向かうと共に、フロアいっぱいに敷かれた大きな布地が、ダンサーを抱きかかえたまま、吸いこむように演奏台直下の暗い闇の中へと消えていく。ロシア大地の神秘性を一瞬に象徴した見事なエンディングだった。 しかし今回の再演を見て、演出面での工夫は、最初見た時ほどには感動を覚えなかった。いやもちろん手際のあざやかさは認める。しかしなまじ前回にその仕掛けを見ているだけに、ついその先をあらかじめ読んでしまうからである。その点不思議なことに音楽は違う。同じ曲を何度聴いても、人は演奏を通してその美にあらためて酔い痴れることができるのである。 これはそっくりダンス芸術についても言える。逃げも隠れもできない身体という素材ひとつに賭けて、ひたすら刻一刻の表現に賭けるダンサーたち。そのテクニックは魂そのものと一体化して、観るものの心を高く中空へと奪い去るのだ。平山と柳元を名乗る二つの肉体が、この日ガップリ四つに渡りあって、組んず離れず目まぐるしいまでに織り上げたその身体美には、いささかの誇張なく一級品の持つ魅惑と崇高さがあった。 この「春の祭典」平山版は、作者がこれに遡る数年をかけて定着させた先行デュオ「BATTERFLY」を、さらに綿密に磨き上げ、厳しい錬磨の先に生み出した最新の快作だと評していいだろう。あえて難曲とされるストラヴィンスキーを選び、「聴覚・視覚の刺激が融合し、舞踊本来の“魅力”が現れると信じています」と、本人が創作ノートに記せるだけの覚悟と自負が、そこにはしっかりと根付いていた。 だが現代舞踊には、さらにもうひとつの残された課題がある。いやしくも“今日を生きる”ことを使命とする斯界のダンサーなら、創作の意味するものが、おのれ自身による身体表現の域を超えたさきに、しかと待ち構えていることを知っているにちがいない。すなわち仲間であり他者でもある同業のダンサーたちを通して、はじめて具現化される振付・演出の仕事だ。バレエ・ダンサーのように、舞踊家としてランクを登りつめることだけが、ほぼ目標のすべてではないのだ。現代舞踊家だけが背負う宿命的任務だ。 同じストラヴィンスキーに挑んだもう1本の作品「兵士の物語」は、この要請に応えた平山の答案である。もともとロシアの民間に伝えられた伝説を、ナレーションやセリフを添えた台本にまとめ、そこへストラヴィンスキーが7重奏の室内楽スケールの音楽を編み出し、第一次世界大戦中のスイスで初演された。ちょっと風変わりな音楽劇ともいえるが、その後コクトーやクルト・ヨースなど、何人かが手を加えた各種のヴァリアントもある。果たし平山は彼女だけのオリジナリティを、どこまで打ち出せたか。 一方作曲者のストラヴィンスキーは、その後おのれ自身の意思で、ヴァイオリン、クラリネット、ピアノだけで演奏できる組曲を完成させており、われらが平山ヴァージョンは、こちらの三重奏を生演奏の形で舞台にあげ、そのまま言葉やセリフなしの身体の動きでまとめた。もともとの話の中身は、休暇をもらって故郷に帰る農業出の下級兵士が、途中で悪魔に出会い、知恵と金が儲かる方法を教えようとそそのかされて愛玩物のヴァイオリンを手放した結果、最後は女の愛も財産も手に入れることが出来ずに、ひとり世に放り出されるというストーリーである。 この一種の寓話劇は、日本でもこれまでいくつかの脚色・翻案物として上演された記録があるので、知っている人は知っていようが、ダンスだけの初見ではいささかわかりにくい点も発生する。しかし海外では例えばイギリスのランバート舞踊団が、80年代にオリジナルの7重奏版から言葉を削ったダンスだけの振付で上演しているし、近くは昨年の秋ロイヤル・オペラ・ハウス版が、人気のアダム・クーパーのキャストで来日した。ただしこのときはストーリテラーとしてウイル・ケンプが登場しているので、あきらかに原作のナレーション付きのものだ(ただし私は観ていない)。 さてたまたま言及が前後したが、今回のプログラムではこの「兵士の物語」が第1部で、平山が熱演する「春の祭典」は第2部に組まれている。そしてキャストとスタッフものを、1本づつ別に並べて上演した形の舞台は過去にもあった。2007年と2009年に上演したダンスプラネットがそうだが、その中で平山は、振付・演出専任の「UN/SLEEPLESS」を、少しづつ趣向を変えて2度に渡って発表した。ただしこの時は創作の要素として、ライフキャスティングという光樹脂の実験が絡んでおり、いまひとつ彼女の実力が、必ずしも完全に見届けられない怨みが残った。 そんなこともあって、今回この作品に対する私の関心は、ほぼ一点に絞られていた。それは身体の切り替えや反転の連続を瞬時に要求する平山の振付が、出演者たちの動きに、どこまでどのように食い込んで造られているか。第一の見どころは最初にそこだと思った。そしてそれと並行して今回は悪魔に扮するという平山の師、先達でもある若松美黄の出演が、とりわけ興味と好奇の対象だった。 結論からいって、その解答はこの作品の3人中軸(兵士・プリンセス・悪魔)を取り巻くグループ(ピンク・ブルー・グレーの衣装)の振付に、いちばんよく出ているように思えた。次いでプリンセスと兵士の動き。さすがに悪魔の演技だけは違った。それはこの種の寓話に間々ありがちの、あのオドロオドロしたディアボロでは決してなく、知的で飄々とした、しかも不可視な存在の意地悪さとでも形容したくなる味わいを表出していた。新鮮で思い切ったキャスティングであり解釈だったとも言えるだろう。 ノートによると、演出家としての平山は、この作品を民話のもつ原点の教訓へ立ち返り、そしてそれを物質と精神の二元論に立つ抽象的な近代説話として造り上げたかったようだ。その一端は最後に椅子の上で中吊りにクローズアップされたヴァイオリンの揺れにも読み取れたが、しかしそれだけではまだ作品全体が強い象徴性をもって迫ってくるレベルに到達しているとは残念ながら言い難い。 ただこの一編が可能性の視野から言って、平山コレオグラフィーのレパートリー入りを果たす至近の位置にあることだけは充分に感じられる。ちょうど彼女の振付リストにある「UN/SLEEPLESS」の場合のように、今後キャスティングやリタッチメントで、さらなるトライを重ねることで、いよいよ面白さを付け加える作品であることは、おそらく間違いあるまい。(5日所見) |
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