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年が改まって、のっけから何の話かと怪訝な顔をされた方も少なくないだろう。たしかにこの見出しは、目下出版界での思わぬベストセラーとなっている、ハーバード大学マイケル・サンデル教授の哲学講義考「これからの“正義”の話をしよう」をもじったキャプションである。何故そんな書き出しを持ってきたのか? この翻訳本は去年の初夏に出版されて以来、半年を待たずに100版を重ねたという人気セラー。この点は来る日も来る日もいわばオタク以上の観客動員に、十年一日苦しんでいるこの国の藝術ダンス界。たまにはそんなブームの一端にでもあやかってみてはと、フトそんなイジマシイ願いを込めて地口を楽しんでいるわけでもない。 近年は大方コンテンポラリーの呼称が幅を利かせ、なんでも人間が半裸でフロア上を動き回れば、それで現代舞踊が1本仕上がったと、安易に考えて済ましている連中も少なからずいる。おかげで客数だけは少し増えたが、その中味に関しては相変わらず種々問題が山積している。だがそんな質の問題を除けば、それだけ一種の大衆化を果たした側面もあり、事実昨年の暮れあたりでは、選んでそのすべてをスケジュールに組み込むのは事実上不可能なぐらいの舞台がひしめいた。しかし実際問題としては、それを観に来たお客なり評者なりが、おのれ自身の生の眼で、しっかり最後まで見終えることなしには、うかつに甲乙の判定は下ろせない。そこがこの藝術のおもしろさであり難しさでもあるのだ。まあ 100 の駄作から 10 篇の佳作が出ればいい方、ほんとうの秀作は 1 本あるかなしかの厳しい受苦の世界なのだ。 ところが年が改まって1月になると、さすがは日本の正月、暮のあわただしさとは打って変わった静けさ。したがって比例の原理だけから言っても、書き手の本能に訴えるような作品は当分見つからない。もっともこの期間は、私事にわたるが全舞連(全日本舞踊連合会)から頼まれて、「舞踊年鑑 2010 」に掲載予定の“現代舞踊の概況”という通年リポートをいそいで完成させる仕事があった。中味が中味ゆえ、厳密には大晦日の舞台を見終えるまでは、文章をスタートさせるわけにも行かない種類の原稿である。 したがって月前半の2週間は、片方で筆を進めながらあと半分は、しきりと“現代舞踊”の来し方行く末とでも言おうか、いわば自然発生的に浮かび上がったこの命題を、脳みそ内の一隅であれこれいじくりまわしていたという次第。これが上記の奇妙なキャプションを持って来た理由の説明である。しかしそれでも人間はどこかで踊る。 d ―倉庫の「ダンスが見たい」の新人シリーズの予選(7日~16日)の一部、また故・藤井公3回忌に因んだ追善公演(「われは草なり」 8日)、および中堅7作家を揃えた〔あうるすぽっと〕での「Dance Today」(12日)。これが忙中閑の書斎を抜け出して、この間に私が観たダンスの舞台の全部である。 ところがその中には、残念ながら単一の作家による一本勝負の創作舞台はどこにもなかった。かといって例えプログラムのコンテンツとして組まれた複数作品の一本でも、強烈な個性や問題を提起するレベルの短編もやはりない。こう言っては何だが、新人シリーズの中味は、やはり技術や表現力の点でネリが足りないか、あるいは取り組む主題があまりにも突飛で、いかにもタメにするような独善が、どうみても一定レベルの普遍性には到達していない。この意味で言うと、やはりシリーズ「Dance Today vol.5」にも同じことが言える。テクニックこそ上だが、逆に主題や表現が意外におとなしく、7作品中に特に抜きん出る成果にはついに出会えなかった。 一方門下生による藤井公の3回忌公演は、上演の意義を認めることにはやぶさかではないが、会の性格上どうしてもセレモニーの色彩が強く、故人のエッセンスを全的に打ち出した迫力でいえば、2006年の夏に公開された「観覧車」の右には遠く及ばなかった。亡くなる1年半前の夏の季節に、直属の弟子たちも総出で東京藝術劇場で上演され、見事な藤井ワールドを打ちだして見せた。直後に書いた拙文(「藤井公の回顧展に現代舞踊の純血を嗅ぎとる」:単行本“続・ダンスの窓から”所載)に、故人の人生と藝術を総括したつもりなので、ここではあらためてこれ以上は触れない(ただし少々違った観点から小生の E ‐サイト“ダンスと社会”の6行批評欄には短文を載せた)。 こうして年鑑の原稿を完成して提出した頃には、はやくも新年1月の下旬が目の前に迫っていた。いささかあせり気味の私も、これ以後は老骨に鞭打ちながら、あわてて日々通常の劇場行を再開したという次第。こうして最初に出向いた催しは、日本女子体育大学の第9回卒業公演「SEXTET」(なかのZEROホール 18日)。初めは欠席の予定が、時間がとれたので飛込みで入れてもらったのだが、期待にたがわず今年もまたジュニア/シニアたちの〔若さ〕には打たれた。ややもするとアングラ志向で、ネクラの多いこの国の現代舞踊にあって、いまや大学運動科学系のダンス活動は、明るくてエネルギッシュそのもの。バイタリティがその大きな魅力の一要素であるはずのコンテンポラリー・ダンスにあって、よくリハーサルを重ね、普段からはちきれそうに体躯が練られている点だけでも、彼女らはこのジャンルの希望の一角と持ち上げても、決して言い過ぎではないだろう。 さてこういった次第で、当初から私の仕事の予定に組まれていたダンス・プログラムは、22日-23日に上演される高瀬多佳子の第4回〔わびすけ倶楽部〕(日暮里サニーホール)と、〔ミチコ・ヤノ瑠璃玉会〕の第23回公演「みるふぃーゆ」(シアターX)の2つだった。ところがあいにくこの両者、ともに2日間の上演時間がピタリ同時刻で、物理的にどちらかしか見られない。しかも高瀬プロは出演者の顔触れが、両日でその一部を入れ替えて組まれている。そこではじめの日を日暮里へ、次の日に両国へ足を運んだ結果、リーダーの高瀬プロ自体は、ついに見られないで終わってしまった。 この〔わびすけ舞踊倶楽部〕の主旨は、いずれも過去に文化庁の助成金を得て、海外のいづれかの国へ研修に出向いたメンバーを集め、往時の昇竜期のいきおいとその成果の糧を、今も元気に創作として再現してもらおうという狙いにある。政府の決定した研修部門はいくつもあるわけだが、モダンダンスは高瀬多佳子がイニシアティブをとり、4年前の2007年の暮から始まった。私としても第1回目のプログラムから観ているが、当初その“わびすけ”という命名には、いまは中老年のベテランながら、やればやれるというちょっとアイロニカルで、そのくせ心に秘めた反逆と創造の響を響かせる快感がたしかにあった。今も果たしてそのテンションは続いているのかどうか。 今回は初日の5作家しか見られなかったが、ベートーベンあるいはショパンの曲を使ってダンスを創作するという規定が、現代舞踊の命題でもある“今”と、どこでどのようにからみあっているのか。クセナキスに続いてベートーベンのストリングスが響いてくる舞台を目の前にしながら、この発想にどうもダンスとの主体的な噛み合いがいささか不足している思いを、どうしても禁じえなかった。中で山名たみえの「ノスタルジー」に、映像ともども高揚した詩情が感じられ、これがいちばんのこの日の収獲。 さて翌日は場所を変えて「みるふぃーゆ」の瑠璃玉会へ行く。“1000ニンノ オンナノコ”という一行が副題に添えられ、洋菓子の千枚葉とフランス語の娘の意を重ね合わせたゴロあわせの遊びだが、逆にいわばそれだけを唯一のネタにして構成したオムニバス風のダンス・コント集。8人のダンサーが「青の危機」「魂のつぶやき」「美しい女神」など、多少ともウィッティな味付けをまぶしたショートショートを、バレエ、ジャズ、ブトー風と多様なスタイルの混交で見せる。年齢的にいささかキツそうなダンサーもいるが、いちおうプロの合格点はマークしている。こうして最後は「灼熱地獄」の景で、全員が左右 2 色に塗り分けたペルソナ(仮面)をつけてにらみ合い、それがそのまま全員総出のフィナーレとなる。シンプルながら演出に見る変化と手際がなかなかにフレッシュで、つい誘い込まれて終わりまで引き摺られるエンタメ的要素も捨てがたい。 ここにはある意味でコンテンポラリー・ダンスの基本要素が期せずして出そろい、それらを無理なく処理していく現代舞踊の1サンプルを示したような作品だ。結構おもしろい。ポイント・ポイントで短いセリフや色彩本位の美術を上手く活用しながら、それらが決して則を越えず、どこまでも中軸をダンスで押さえている作風は、プロトタイプとしての合格品。つまりこれは決して卓越した芸術品とはいえないが、達者な職人性の点では、ある意味すこぶる完成度の高いダンス・パフォーマンスだったと評価したい。(25日記) |
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