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武元賀寿子を軸として活動するダンス集団DANCE VENUSが、2005年の1月に「初めの一歩」とよぶ、初手のダンサーにとっての登竜のチャンスになる舞台を企画し、第1回をやはりここ大井町のきゅりあん小ホールで決行した。あれから数えて6年。年に1回ないし2回の発表だが、今回はその9回目になる。たいした持久力だ。そしてここからまかれた種子、また咲きつつある花は、いまや決して無視できない痕跡と成果を、舞踊界の一角に残している。ちょっと名前をピックアップするだけでも、幸内未帆、白井麻子、柴田恵美、相部知万、白髭真二、皆川まゆむ、栗山素子、渡辺久美子 その他その他。すべてこれからの現代舞踊には落とせない、可能性を絵に描いたようなダンサーたちばかりだ。 いや実は武元姐御の伝播力は、すでに10年も昔になる2002年の3月,江戸東京博物館のホールに、大挙30数名の天下の美女を集め、フロアいっぱいにシコ?(プリエ)を踏ませるやら、桜咲く肌の匂いを振りまいて、俄然客の目を惹いた1篇「匂いー馥郁たるー」においてすでに始まっていた。いや勘違いしてはいけない。それは今どき罷り通る似非コンテンポラリーの乱暴なアドリブ・パフォーマンスでは決してない。一見放恣に見えるダンサーたちの動きには、きびしく武元流の美学が貫かれ、それを踏まえた上での激しいエネルギーの炸裂となって出現したのだ。 それを振付・演出の武元は、「1点に立ち尽くすことから、必要な動きをさがす作業」だと説明している(制作ノート)。しかしその表現や踏み出しの一歩は、決して外から与えられる固定のパターンではなく、生きて呼吸をしかつ意識する身体の、おのずからなる内燃の勢いが、たまらずその場で四肢の動きになって現れ、その生み出された形姿が、さらにその先の表現を有機的に呼び出すといった連鎖風の進行、いわばウソのない身体の生理による肢体の積み重ねなのだ。今更だがそこにこそ現代舞踊がバレエとは違う根本の一点があり、さらに言えばモダンの世界でも一般的に考えられている振付の概念とはいささか趣を異にする。武元メソードならではの方法論である。 しかしそれは最初から本人の身に付いていたわけではもちろんない。小学校時代に日本舞踊の素養を身につけ、さらにその後に続くモダンダンス修得の、それも地方と中央、国の内外にまたがる不断の探求・体験の貴重な産物である。それと同時に彼女はその実践のさらなる追求の場として、この間長年にわたるユニークな、武元カラーのリサイタル「A・huu …」シリーズを打ち続けた。そこで追及したものは何か。身体という生きた表現体と対峙し、それを活かすための独自の呼吸法、同時にそれをマクシムに引き出すための触媒である音楽、サックス、フルート、琴、三味線など和・洋にまたがるソロ楽器のプレヤーとの、はげしく真摯な共演スタイルの発見であった。 こうして鍛え抜かれた独自の表現媒体が、本人のいう“意識する肉体”であり、五感のすべてをナイーブに開放した時にみられる“身体の脳化”現象に他ならない。だが武元はこれらの発見と成果を、おのれの独り占めにする気はさらさらなかった。自分より若い後輩がこの世界へ飛び込んでくるにつれ、少しでも先覚者の知恵と技術を分かち与えることで、将来の活動への貴重なヒントそしてヘルプになることを望んだのだ。これが2001年の秋にスタートした若手集団〔KAPPATEI〕への肩入れ、そしてこの〔初めの1歩〕の定期公演にはっきりとした形で現われる。 その際注目していいのは、それが決してヒエラルキーによって成り立つ、言うところのダンス・カンパニーの組織ではないことだ。つまり参加者はつねに芸術家としての人間武元との、自由で主体的な触れ合いの縁から成立した形であり、その時々の表現活動であることだ。こうしてリーダーである武元個人も、必要であれば自分から進んで振付を買って出るほか、時にはダンサーたちと同一目線に立って、バイプレヤーの立場でフロアに姿をあらわすなど、これらは他の機関による同種のプログラムでは、めったに味わえない見事な特色になっている。この公演への出演者の多くが、文字通り“初めて”の舞台体験でありながら、個々の作品に、生き生きととらわれのない個性とアイディアの輝きを発揮している理由でもあるのだ。 さて書き出しからここまで、ただ武元ダンスの分析や賛辞で終わっては批評コラムとしての態をなさない。そこでこの日かかった作品のいくつかを、やはり順に取り出して若干の感想を述べてみることにする。冒頭でも触れたとおり、今回の公演はもっぱら新人デビューだけをターゲットにした従来からの姿勢からは少しずれて、いくつか武元の手になる旧作からの新バージョンを試みた。プログラムのノートに依れば、「ちょっと原点に帰り、ダンサーの質の向上にこだわってみる」会にしたという。 具体的には過去に舞台に載せた作品の一部を取り出し、それを若手の新しい顔で踊らすとか(「200祭」ほか)、または武元につらなる中堅級の同質の作品(「ヨルノニジ」)、それと過去に縁のあった他ジャンルとの人たちとの共演で、ダンスを軸とした新作を試みる(「黒髪」)といった内容である。公演タイトルの副題にある“素:ス踊りの機会”とは、この制作姿勢を示唆するもので、例えば個々の上演にはセットとか衣装など、ダンス以外の要素を可能なかぎり省略してある。ところが全体を見終わっての印象は、それがかえってダンス本来の持つ華やぎを際立たせ、舞台全体がむしろにぎやかで楽しめるものになったのは収穫。タイトルに付けた「DX」の2文字が、ウソではないことを証明した。それは必ずしも尾上菊之丞が特別出演したり、三味線・笙・琴など、従来にない楽器を取り入れたからではない。 それは“素”の一文字が象徴するように、ダンス藝術ほんらいの醍醐味、身体表現のサワリともいうべき核の部分をストレートに持ち出して見せたからだと思われる。例えば「水面」という名を冠した冒頭の群舞。これは2009年の暮に草月ホールで上演した、40名ものダンサーを動員したアンデルセン童話の脚色もの「Blue~漂びょう~」の一部だが、今ではストーリーとか、主役の川野眞子、セットなどすっかり忘れてしまっていて、反対に踊り手を半分以下の13人に縮小し、10分足らずの群舞で見せたこの魔女踊りの方が、よほどたのしく迫力十分の出来だった。つまりはダンスという身体藝術の振付のコアを、剥き出しでストレートに見せつけた魅力からだという気がする。 次に「Poo & Bee〟boo?!」。この会が第1回からいつも継続して出しているPooとBeeという二体の、赤い縫いぐるみをつけたキャラクターが動き回るダンスで、いつも前回に終わったところから続きの動きを考案して続けて行くやり方が売りだという。一種のリレー・タッチの短編シリーズだ。見ていて爛漫なドゥオが結構おもしろく、今回は彼女らが舞台に出てくる寸前の楽屋でのスタンバイをビデオで流し、そのあと武元を含む何人かの過去に振付けた担当者も舞台へ上がって、ダンサーを動かす場面をダイジェストに紹介した。こういう見せ方とか明るい笑いは、もっと現代舞踊のコンテンツにあってもいいのではないかと日ごろ思っているが、はからずもそれを見た。決してドタバタではなく自由で奔放なダンスの見本だ。 後半の2部では、上述のアンデルセンもので群舞の一員としてデビューした森田麻衣が、自作「going going gone」というソロを見せた。昨年末にシルクロードのオーディションを受け、めでたく登録ダンサーになった由。高校を中退してカナダで過ごした3年の留学経験もあり、恵まれた肢体でバレエをアダプトしたテクニックも中々しっかりしている。 次いでだが今私が言ったこの若手ダンサーのキャリアーは、すべてプログラムに記された武元自身の文章による。その筆致から伝わってくる紹介文の暖か味は、それだけでも「初めの一歩」が、他の機関による行事化したデビュタント用の型どおりの公演とは、一味違うふれあいの血肉が感じられてうれしい。作品も正直なもので、別に奇を衒わなくてもそれだけ充分にたのしめたし、事実みていて作品がおもしろいのだ。 最後になったが、今回の目玉作品としてのハイライトは、やはりトリの「黒髪」であろう。日本舞踊の家元である尾上菊之丞とジャワ舞踊の佐草夏美、それに武元本人を組み合わせた異色のトリオが、竹澤悦子の三味線・地唄でそれぞれの技法を用いながら踊り舞う。武元らしい大胆な試みだが、ダンス作品としてみるとどうだろう。この場合動きのペースはどうしても弾き語りの地唄が一貫して支配する。1年ほど前に竹屋啓子がやはり花柳流を立てて同種の試みをした。そのとき用いた音楽は多種にわたるバッハの曲だったが、その時も動きは平均してスロー。ただ主題が「時~うつろいゆくもの~」だったのでいくぶん救われたし、途中変化も挿入した。今回のアダプテーションは、一曲で通した点、ある意味ではさらに野心的である。さしずめ“超スロー” とでも形容するほかはない結果に終わった。三様の動きはそれぞれに良かった。しかし真っ正面からでなく、どこかに抜け道のような工夫があっても良かったのでは。(5日マティネ所見) |
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