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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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ダンスの抽象が突きつけた鋭い現実
萩谷紀衣 DANCE EXPEDITION 「4πr²」 7月6日19:00 芝 シアター X

日下 四郎 2011年7月14日

数ある『東京ダンス機構』シリーズの中から、近来にない秀作が1本生まれた。萩谷紀衣 DANCE EXPEDITION [ 4πr² ]である。約1時間にわたる新鋭ダンサーの鮮烈なソロ作品。ここには藝術の原点ともいうべき、イマジネーションが差し出すするどい設問、知的でありながら決してマトを外さぬ問いかけが、作品のいたる場面で、まるで吹き矢のように観るものの胸に突き刺さってくる。目の前にあるのは、ただガランとしたフラットな空間、しかしそれが次第に今日ただいま、この列島日本が置かれた状況にピタリ重なってくるから、ある意味ではなんとも怖ろしい作品だ。

そもそもタイトルの [ 4πr² ] とはなにか。説明によるとこれは球体の表面積を求める場合の公式だそうだ。作品を着想し始めたころ、ふと「この懐かしい数式を思い出した」とノートにある。しかし学歴がひたすら文学部畑だった筆者には、これまで出合ったことのない、これは奇妙な謎の文字列だった。だいたいがキャプションに〔д○〕とか〔×4〕など、これまでも理数系の記号を用いるのが、母であるダンサー萩谷京子以来の好みのようだが、あえて言うならいささか空回りに終わっている気味が無きにしも非ずだった。しかし今回は違う。

あえて数値で表現したこのタイトルは、地球という球体の表面を暗示するメタファーとしてだけでなく、さらにそれに挑戦する作者の姿勢、あるいは主題としての採り上げ方のスタイルを、まず最初にキッパリ宣言している点でもユニークだ。すなわちここではあらゆる情緒をすべて切り離して、生存にかかわる根元の問題を、そしてまたそれを取り巻く宇宙の中に置かれた惑星の状況を、ダンスを通じてそっくり現出させてみせようという、ある意味実に野心的なレポートでもあるのだ。

したがって例えば作品が展開する途中で、赤いランプを灯した奇妙な浮遊物体がどこからともなく現われ、それが舞台のあちこちを飛び、そのうちの何体かは客席の一部にまで不気味に侵入してくる。この演出は決して思いつきや、単なる客いじりのお遊びではない。この瞬間からとつぜん進行中の舞台空間が、実は月面とか火星の谷間での出来事であったかのようにも思えてくるから不思議だ。いや、当然この美術がらみの着想(護阿房=萩谷京子)が、最初からそれを計算した上での演出だったことだけははっきりしている。

流れを最初にもどして説明していこう。開演時間になって、暗い舞台の中から最初に視界に浮び出るのは、上手の一角に置かれた黒いガウン姿の正体不明の人物の坐像である。静寂の中をややあってそこへ聞こえてくるシロフォンの短い音のフレーズ。1オクターヴのド・ミ・ソ・ドを繰り返すだけの、ごく短い断続的な繰り返し音だが、ふと見るといつしか黒衣のトルソー部分の両袖から、真っ白い生き物のような両腕がニョキリとあらわれ、これがさまざまに交差しながら、なにか不思議な生き物のようにはげしい動きを演じてみせる。白と黒だけの対比視覚と、それにかぶさるモノトーンなサウンド効果。いま誕生した生命体の細胞の、これは原初の蠕動の暗喩か。あるいは見方によっては、未分化から意識への止揚を促す生命の、何者かによるサイコロジカル・トリートメントの実験のようでもある。

その効果あってか、しばらくののち一瞬のきっかけで、上部の頭巾が突然フロアに転げ落ちる。つづいて胴部のガウンもまた脱ぎ捨てられると、そこに現れるのは何と白いブーツとレオタード姿のうら若いひとりの現代女性である。これまではただの細胞集団として所属不明だった生体が、とつぜん現代というこの世界の一角に投げ込まれ、もはや修正不可避の実在として、否応なく入籍の手続きを終えた、これはひとりの人間の誕生風景だといっていいかも。

それにしてもいったいここはどこだろう。ガランとして人ひとりいない、だだっぴろい空間。ただその一角には、なにか岩山か瓦礫をイメージさせる、表面を褐色に塗りたくった方形のダンボールが何個も積みかさねられているだけだ。このセットはいったい何を意味しているのか。そういえば同じものが下手奥にも少しみえる。だがママよ、いま宇宙の一角に生を受けたばかりの無垢の女性は、その喜びに一切を忘れ、ありったけのエネルギーを込めて、ひたすら生命の唄――四肢・身体を惜しみなく投じたダンス表現に打ち興じ始める。目もあやなすばやい動き、ひたすら豊富な表現の身体ヴォキャブラリー。見ているだけで心浮き立つ楽しさと迫力だ。

だがちょっと待てよ!そのバックには、どこかから妙な不協和音が流れ始めているではないか。ステージのウラあたりから、これは音楽ではなく、どこか現代の街頭先で拾ったノイズ音と、それに混って母音の多いラテン系の言語を思わす男の声が、たえまなく流れているのだ。意味不明のなにやら暗いムードのつぶやき。そのうちそこへ日本語も少し出てきて、これが実はこの春発生した東日本大震災の惨状を目の当たりにした、ドキュメンタリーの収録レポートであることが分かってくる。今日ただいまの、列島が被っている悲惨な現実の、さりげないが容赦のない介入だ。(それにしてもこの編集は巧だった。ドキュメンタリーの迫力は意味でなく、あくまでそのアクチュアルな感性にあるのだから)。

しかしこの間にもダンサー萩谷紀衣のソロはなお続く。同時にその巧みさは、これまでに彼女が演じたどのステージにも見られなかった技量の高さだ。ヴォキャブラリーの豊富さも一段の進歩だし、それを演じる身体エネルギーもまた、今を盛りの 20 代前半ならではの迫力。(そんななかで時として上半身と両腕のさばきに、フト 40 年も前の母親のデビュー作『たぬき』の、あの独特の匂いとカラーがただよってくるのは、これが DNA の魔術というものか)。