藤井 修治 | ||
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2001年11月28日 | ||
スターダンサーズ・バレエ団の11月公演に行きました。B・A・L・L・E・T・Sと題して、現在世界でも最も注目を集めている振付家ナチョ・ドゥアトの傑作「ナ・フローレスタ」の日本初演と、最近実力を発揮してきた鈴木稔の新作「ボーダーランド」です。 まず上演された「ボーダーランド」は3つの独立した作品になっていて、はじめはドイツの作曲家ヒンデミットの名曲「交響的変容」を用いた音楽と同名の“Symphonic Metamorphosis”です。4つの楽章を鈴木流に視覚化した構築的シンフォニック・バレエ。つづく“Gate”は半透明の大きい屏風のようなパネルを動かしてカジュアルな姿のダンサーたちが出入りするもの。そして“Dialogue”は床に円環状に並べられた青い豆電球が光る中を土俵のように男女がつかず離れずに交流するという作品。3曲3様の面 白さ。題名どおり、バレエとダンスなどさまざまな要素の境界を超えようとの試みも感じられました。 ナチョ・ドゥアトの作品はアマゾンの密林を遥かに見おろすような背景の前で、微妙な色彩 の衣裳の5組の男女が柔軟な動きを展開して、人間と自然のかかわり合い、そして自然を大切にしようとのメッセージも感じさせました。 この公演、どの部分も物語の進行はありません。ダンサーの動きは具象性を排した抽象的なものともいえます。しかし冷たくなくて体温が感じられるものでした。さて、抽象ということはどんなことでしょうか。若い人が、あれは抽象的でわかんない、などと否定的にいうのを聞いたことがあります。よく聞いて見ると内容は具体的ですが難解でつまらないという意味でいっていたようです。間違った使いかたですね。抽象という言葉は多分に抽象的かも知れません。 手もとの広辞苑を開きますと、「抽象」は「事物または表象のある側面・性質を抽(ぬ )き離して把握する心的作用」うんぬんとあります。ナールホドとわかったような気もします。ついでに「抽象芸術」については「現実世界の形式を取り扱わず、純然たる線・色・形によって造形表現を行う非具象的な芸術の総称」とあります。これは主として美術、特に絵画について考えるとわかりやすいようです。簡単にいえば、具体的な風景や人物、物が描かれていない絵画の、色や形や線を楽しめばいいわけです。 近代までは、写実的な絵はもちろん、神話や幻想の絵画化でも具体的な姿が描かれていました。ロマン主義、自然主義、印象派、新印象、後期印象派。表現派、立体派、さらに超現実主義など多彩 な芸術風潮が生まれても必ず具体的な絵でした。その結果、具象表現は開拓されつくした感もあります。そこに抽象芸術が現れる必然性があったのかも。 抽象絵画の創始者ともいわれるカンディンスキーはもちろん若いころは具象絵画を描いていました。彼はある日の夕方、帰宅した時にこの世のものとは思えない美しい絵が立てかけてあったのでびっくりしたそうです。よく見るとそれは自分の絵を逆さか縦にして立てかけておいた絵だったのです。描かれた物ではなく純粋に線や色や形の美そのものが輝いていたのでしょう。以後彼は抽象絵画一筋の道を進み、多くの美術家も抽象芸術に走ります。 抽象絵画といっても多種多様です。カンディンスキーの絵のように顕微鏡下の世界を覗くような幻想的なのもあれば、モンドリアンのように縦横の直線が交差する幾何学的なものもあり、戦後のアメリカの熱っぽい表現主義的抽象美術の中には、自分の身体に絵の具をぬ って転げまわったりするアクション・ペインティングもあり、芸術家各自が個性を押し出しています。現代芸術の世界では抽象芸術の比重があまりに強くなったので、逆に具象に戻る人も現れたりします。おかげで多種多様な傾向の美術を楽しむことができる現代は本当に面 白い時代だと思います。 日本では実のところ、まだ富士山を描いた日本画やバラを描いた油絵のほうが親しまれています。抽象絵画を見て、これは何が描いてあるのかわからないから私には不向きだわなどという人も多いのです。しかし洋服や着物の柄(がら)は抽象のほうが圧倒しています。華やかな振り袖や訪問着の場合は具体的な花鳥の模様が多いようですが、たいていはチェック(格子)やストライプ(縞)などの抽象です。抽象模様は何も20世紀になってからでなく、昔からわれわれの生活に入り込んでいるんです。モンドリアンの縦横線の絵画の以前に窓枠や障子のデザインがありました。日本庭園の庭石や西洋庭園の敷石の並びも抽象美といえます。昔から、われわれは抽象美への感覚をみがいているのです。だから昔のことを知れば、いま、そして未来も見えてくるはずです。古いファッションを見て将来を少しは予測できるはずです。そしてこういうことはいろんなジャンルにもあてはまるはずです。 バレエの話に戻ります。19世紀のバレエのほとんどに具体的な物語がありました。ところが20世紀になると他の芸術と同じように舞踊界でも内容的にも手法的にも多彩 な舞踊が現れます。その中の一つが抽象舞踊といえます。20世紀初頭のフォーキンの名作「レ・シルフィード」(「ショピニアーナ」)は夜の森の中で一人の詩人が空気の精たちと踊るだけで特に物語の進行はありません。時代がさがるとロブホーフやマシーンは交響曲を用いてバレエを作り、この種のバレエは、時を追って物語から離れて抽象化されて行きます。そしてバランシンは交響曲や協奏曲を用いて全く物語のない抽象的なバレエを作ったのです。これは抽象美術の隆盛に対応したともいえるし、音楽を尊重するバランシンが、もともと最も抽象的な芸術である音楽を視覚化するのに抽象的な作法を優先させるのは当然のことでしょう。そして視覚、聴覚を総動員して絶対的な美の世界を追求するバランシンが、19世紀末に完成したグランド・バレエのいいとこどりを徹底し発展させて抽象バレエに至ったとも考えられます。抽象バレエの出現は歴史的必然といえます。そして抽象バレエの隆盛はマース・カニングハムらの抽象的なダンスの出現を導き、さらに現在のダンスシーンにも大きい影響を与えているのです。 抽象美術を見る場合、画面の中に何か具体的なものを見るのは邪道でしょう。純粋に色彩 や線、形を見るべきです。かくし絵のように何かがひそんでいるとさがすのは、トンネルの中でコンクリートの壁に事故死した人の顔が見えたと怖がっているようなものです。バランシンの動きの面 白さを追求した作品にも勝手に物語を想像して、わかったと喜んでいる人がいるとか聞きますが、それよりも全体の流れや造型美を楽しむほうが正しい見かたでしょう。 しかし別の面から考えてみるとバランシンの「テーマとヴァリエーション」「シンフォニー・イン・C」「アゴン」等々の物語のないバレエ、いわゆるプロットレス・バレエも人間であるダンサーが踊っているのです。男がいて女がいて、とくれば具体的なドラマを感じないわけには行きません。バレエにせよコンテンポラリー・ダンスにせよ人間が踊っているのです。いろいろな受けとりかたができるのです。舞踊のもつ特殊性であり、魅力だということができましょう。 さて、スターダンサーズ・バレエ団の新作も物語がないし抽象的な動きを重ねていますが、それなりの起伏やドラマを感じることはできます。人間が作り人間が踊る舞踊は、抽象と具象を両立させたり交錯させているのだと思います。物語のあるバレエも言葉がないために抽象的になり、抽象バレエも人間関係など具象性が見えます。抽象舞踊も怖くはありません。多種多様な舞台を楽しんでください。 |
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