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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
Vol.77 「本物も偽物も見る人しだい」
2003年4月22日

   東京では足早に桜の季節が走り去るようです。先日、新宿御苑での園遊会には超有名人や偉い人たちがお招きにあずかったようですが、ひっそり生きている僕にはお招きがあるはずがないのは当然でしょう。翌日一人で御苑に行って来ました。ちょうど八重桜が満開で、東京では珍しいウコンとかギョイコウという黄緑色の桜も見頃でした。また桜の追っかけかとバカにしたような顔をする人も少なくないのですが、つぼみから花が散るまでを見つづけると生や死のことも少しは見えて来たりもします。ちょっと哲学したりして・・・。
 近年はバラの花などは一年中花やさんで買うことができますが、桜は期間限定の短期決戦ですのでこっちも一生懸命です。桜が散ってしまうとがっくりするのですが、今年は東北にもかけつけるつもりです。さらには来年も見ることができるようにと健康にも気をつけることにもつながるのです。
 しかし、日本では日本画をはじめ陶磁器や漆器、日舞の舞台などで一年中桜と見ることができます。うちでも造花の桜を飾ったりもします。これをウソの花だから価値がないとはいえません。見る人の心がけ次第、見かた使いかたによって生活が美しくもなります。芸術とか美というものについて考えるきっかけにもなるかも知れません。
 劇場に行って古典バレエの名作を見ますと、多くの場合は架空の世界、ウソだらけの時空です。でも現実味はなくても真実はちゃんと感じられるのです。舞台芸術の魅力や魔力はそんなところにあります。浮世離れしてはいますが自然や宇宙の秩序さえ感じさせる舞台もあるのです。
 たとえ造花でも心を込めて作られたものには本物とは別の美もありますし、長持ちもします。これが美術や芸術をものにするきっかけともなりましょう。テレビの「開運なんでも鑑定団」で本物偽物で大騒ぎしているのはとても面白いのですが、貨幣価値だけで物事を判断するのは少し悲しい。伝来の家宝にウン百万円を期待したのに偽物とわかって500円といわれてがっくりする気持ちはわかります。しかしそれまで大切にしてきたのを偽物だとして捨ててしまうのは可哀そうです。いままでどおりに大切に扱ってほしいとも思います。
 貧乏人の負け惜しみといわれそうですが、僕も多少は本物を持ってはいます。でも安くてもすてきな物もあり、平等に扱って楽しんでいます。バカラのワイングラスでアセロラドリンクを飲んだり、100円ショップのグラスでシャンパン飲んだりもするのです。
 さて、先日の朝日新聞に「レプリカで美は伝わるか?」という見出しに目が行きました。兵庫県の「応挙寺」こと大乗寺というお寺では、江戸時代の大画家円山応挙をはじめその一門の画家の襖絵(ふすまえ)の65面が13室に描かれていたそうです。これを災害などから守るために本物は収蔵庫に入れて、各室ではレプリカを設置して公開するそうです。このことが問題になり、町の公民館でのシンポジウムで議論があったとか。ある先生は世界遺産認定の基準になっているオーセンシティ(真正性)がなくなる。空間の歴史的価値が大切だという意見です。その反対にお寺のお坊さんはレプリカにすると近付いて見ることができるのが許されたので、絵が訴えるものを感じとれると、参加型の展示の効用を主張されたとか。別の先生は、時代によって見る人の感性も変化するので、制作当時の環境で見ることが正しいかとの疑問を投げたとか。僕はどれが正しいとはいえず、ケース・バイ・ケースで、見る人の考えが大切だと思うのです。しかし美術は美術館で見るものという固定概念は崩すべきでしょう。といって美術を本来の場所で観賞するとするなら埴輪(はにわ)は古墳に戻すべきでしょうし、よろいや刀剣はお城に戻すべきでしょうが、城はもうない場合が多いでしょう。外国のものは外国に行って見るべきかも知れません。ルーブル美術館から「モナリザ」と「ミロのヴィーナス」が来日したことがありますが、何時間も行列して実物の前では立ち止まっていけないなんて、美術を楽しむわけにはいえません。結局僕は無理してルーブルにまで行ってゆっくり見たのです。
 それに対してレプリカや画集の場合はゆっくり楽しむことができましょう。たしかに本物ではないので迫力がないこともあります。しかし印刷では本物より綺麗に見える場合もあるのです。本物志向を貫くと美術に触れる機会がほとんどなくなってしまうのです。
 実は僕んちにもギリシャの壺や彫刻のレプリカがいくつか並んでいて、その間に一つだけヘレニズム時代のテラコッタの小さい像があるのですが、これも本物かどうか?でも時々この棚を見ると時空を超えて古代に遊ぶような気もするんです。
 去年夫を亡くした姉が2伯3日で6回にわたって西国の33ヶ所のお寺を順礼するツアーに参加するといい出しました。3月に第1回、つい先日第2回について行ったのですが、番外で宇治の平等院を訪れました。おなじみの鳳凰堂には入れなかったのですが、展覧場で国宝などを見たついでにビデオを見ました。平安時代の古くなった鳳凰堂の内部の映像が同じアングルで創建当初の極彩色によみがえります。コンピューターグラフィックのおかげで藤原頼道の気分です。これはレプリカでもなく画面での虚像ですがやはり美の世界だともいえましょう。
 美に近づくには古ければいいといったわけではないのです。僕が修学旅行に行った時には奈良の薬師寺は本堂とその右前の東塔といわれる三重の塔ぐらいにしか目立つ建物はありませんでした。ところが先代の御住職の大活躍がきっかけで、本堂の左前には東塔と同じデザインですが超派手な西塔が建ち、つい先日は本堂のうしろには巨大な大講堂もできたのです。今度は薬師寺を訪ね白鳳時代に行って見ようと思っているのです。新しい建物は歴史的価値はないかも知りませんが、建立当時の華麗な様子を偲ばせるだけでなく、気宇壮大な気分にもさせてくれるはずです。誰かと一緒に行きたいな。
 このように国内ならば何とか気軽に美の探訪に行けますが、外国に行くのは時間もお金も大変です。ローマのバチカン国のシスティナ礼拝堂内陣のミケランジェロの超大作「天地創造」と「最後の審判」が、汚れを落としてミケランジェロが描いた当初の鮮明さを取り戻しました。先年、これをやっと見てきたのですが、すごい迫力にびっくりしました。ところがヨーロッパの教会や壁画は日本に持ってくるわけにはいきません。「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」など絵画や彫刻は来日しましたが、残念にも大混雑で人々の背中ごしにチラッと一瞬しか見られないのでした。それだったら図録とか美術全集をめくって、ゆっくり見るほうが心にしみてくるはずです。
 ところが先日面白い話を聞きました。近年不思議な美術館がふえたそうで、たしか徳島の鳴門市には大塚美術館とかいうのができて、原寸大のレプリカばかり陳列されているそうです。思ったより小さい「モナリザ」はいいですが、あのシスティナ礼拝堂の内陣まで原物大だとか。本当でしょうか。もしかしたらイタリアに行かなくてもその壮大な世界に圧倒されるかも知れません。レプリカでも教育効果だけでなく、それなりの感動はあるはずです。要は見る人の問題です。徳島にも行こうかな?
 20世紀は美術の概念が大幅に拡大された時代です。早くに抽象芸術が盛んになり、戦後はデュシャンという人がトイレの男性便器を横に倒し署名をして「泉」と題して展示してレディメイド美術を創造、ウォーホルはマリリン・モンローの写真を色ちがいに変えて並べて芸術化しました。さらにコンセプチュアル・アート、ミニマル・アート等々が現れ、舞踊界も多くの影響を受けて新しい世界を創造しています。しかしダンスは動くものなので価値判断をくだすのはさらに至難です。各種の舞踊以外に、他の芸術をも見ながら、社会とのつながりをも意識する。さらには舞踊芸術の独立性を持たなくては・・・。そのために何よりナマの舞台を見ることが大切ですが、あらゆるジャンルの舞台を見ることなど到底できません。それだからといってビデオばかりを見ながら評論する人もいるようですがこれも心細い。僕はテレビのディレクターだったので大舞台の舞台芸術を二次元の狭い空間に押し込むことの限界を知っているのです。将来は劇場でダンサーが実際にはいなくても、原寸大の舞台を立体映像で見ることができたらいいななどと考えてはいるのですが、僕は生きているうちに実現できるでしょうか。その前に舞踊が絶滅しちゃうかも?だって世の中には他に面白いものがいっぱいあるんだもん。そんなことも心配な昨今です。




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