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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

藤井 修治
Vol.84「ギリシャ悲劇と現代」
2003年7月29日

 先日、銀座の王子ホールという小さいコンサートホールでギリシャ悲劇による不思議な公演を見ました。王子ホールが委嘱した「イピゲネイアの犠牲」という作品で、チラシには「世界で最初にあなたが体験するライブハウス型オペラ、今この空間でドラマが生まれる」とか、「銀座発信の新音楽エンターテイメント、ギリシャ劇 エレクトラ、第1話」とかいう宣伝の文句が並んでいましたが、実際はギリシャ劇を一度解体していろんなジャンルの芸術の要素を巧みに統合した舞台でした。ヨーロッパ文化は古代ギリシャに源を持つものが重要な比重を占めています。日本でも古くからギリシャ神話は親しまれていますし、大きな銀行の正面の巨大な柱はギリシャの神殿の柱がルーツなのは御存知のとおりです。またまた私事になりますが、僕の子供時代、父の書斎に当時は日本で唯一の世界美術全集が並んでいました。父がいない時に忍び込んでは各巻をのぞいたのですが、その3冊目が古代ギリシャの巻で、その中のギリシャ神話の神々の彫刻群に魅せられては古代のギリシャに遊んだものです。裸だからだろうって? そうかも・・・。その後、あの三島由紀夫が名作「仮面の告白」の中で真実の告白をしているのを読むと、彼も父親の書斎でこの全集のルネサンスの巻を開き、イタリアの画家ギト・レーニの描いた美青年の肉体に矢が刺さって血が流れている「聖セバスチャンの殉教」という絵を見て、めくるめく思いをして精通した(ワカリマス?)と書いています。彼が12歳の時かな? 僕もこの絵を見たんですがあまりピンと来ませんでした。僕が天才三島と違って凡才だからでしょうか。この画像はベジャールのバレエ「M」にも出てくるので御存知かも。
 脇にそれましたが、日本でもギリシャ神話や美術はそれなりに親しいものだったと思います。しかし日本ではシェイクスピアの芝居がポピュラーなほどには、ギリシャ劇はそれほどでもないようです。そんなことで今回はギリシャ劇について少々お話してみましょう。ギリシャ劇は悲劇と喜劇がありますが、インパクトの強さで悲劇のほうが圧倒的に好まれています。ギリシャ悲劇はわれわれに親しまれているギリシャ神話のつづき、後日譚のようなものです。ギリシャ神話は何千年もかかって作られ伝えられたもので、宇宙の生成から神々の誕生と活躍、そして人間との交流など荒唐無稽ではありますが楽しい物語がつづられているのに対し、ギリシャ悲劇は神々の子孫たる人々が、これ以上は考えられないという究極の悲運を演じるのです。今から2500年ほど前に悲劇作者たちによってまとめられたのですがその迫力は言葉で表現できないほどです。
 僕の学生時代から社会に出てしばらくの間、僕が卒業した大学のサークルの一つにギリシャ悲劇研究会とかいうのがあって、毎年のように日比谷の野外音楽堂でギリシャ悲劇を上演していました。僕は時間をさいてはのぞきに行ったのです。ギリシャ劇は野外劇場で上演されたので、あそこはとても似合いの場所でした。おかげさまで、いくつかの代表作を知り、ギリシャ悲劇の内容や形式を知ることができました。ずっと後になって本場のギリシャから国立の劇団が来て名作を上演したのですが、昔の学生たちも巧いとはいえなかったのに、ギリシャ劇の本質は伝えてくれていたと思います。若いうちにギリシャ悲劇を知って良かったと実感します。
 ギリシャ劇は数人の役名つきの主役脇役が出入りし、15人ほどのコロスたち(コーラスの起源)が群集になり情景描写や心象風景を演じます。親が子を殺し、子が親を殺すなど人間としてあるまじき内容のものが多く、見るたびに胸が締めつけられ、頭が痛くなるほどでした。いったい悲劇というものが必要なものかとさえ考えたりもしましたが、やはり気になってまた行くのでした。。これがギリシャ悲劇が持つ引力なのでしょう。
 日本ではギリシャ悲劇はシェイクスピア劇みたいに親しまれてはいませんが、時には凄い舞台にめぐり合うことがあります。古今東西の題材を自分のものにしてスケールの大きい世界を創造しつづけている演出家の蜷川幸雄さんは一時期、俳優の平幹二郎さんを主役にしていくつかのギリシャ悲劇を上演しています。大柄で声が大きい平さんが女装して、夫が他の女に走ったので怒り心頭に発して、リベンジのためにその女を殺し、最後には自分の子供まで殺してしまうという烈女メーデアの役で入魂の演技を見せたのにすっかり感心感動した思い出があります。ギリシャ悲劇は表現の大きい男性が演じた方が迫力があるのかもと思ったこともあります。そういえば、三島由紀夫が歌舞伎の名優中村歌右衛門のために書いた新作歌舞伎の「芙蓉露大内実記」とかいう芝居は、ギリシャ悲劇の「フェードラ」の話を日本に移したものでしたが、これも歌舞伎役者だけが表現できる様式的かつ恐ろしい世界です。
 ギリシャ悲劇は他のジャンルの芸術にもとり入れられています。ルネサンス以降の彫刻や絵画にも迫真的な作品があります。そして近世になってからは舞踊にもなっています。
 僕がNHKで舞踊の番組を作り始めて間もなく、アメリカで活躍しているモダンダンスの三条万里子さんがギリシャ悲劇の代表作「エレクトラ」を舞踊化したので。一時帰国の彼女をスタジオに迎えてテレビ化しました。まだ黒白テレビの時代でしたが、それがかえって迫力があったような気もします。ところがその直後に、現在のオーストラリア・バレエの前身のエリザベス記念バレエ団が来日して「エレクトラ」を上演しました。コロスの動きなどあまりによく似た部分があったのでびっくりしましたが、偶然の一致もあろうし、ギリシャ劇の伝統的作法による必然的な結果かとも思います。いずれにせよギリシャ悲劇の普遍性を示唆するものではありました。
 ギリシャといえば、ギリシャの哲学者プラトンの著作「饗宴」をスタジオでバレエ化したこともあります。さらにバランシンの名作「アポロ」を2回テレビで放映しましたが、これはギリシャ神話のアポロの誕生から行動を描く晴朗な作品で、悲劇ではありません。これについては別の機会に書きたいと思います。
 ギリシャ悲劇はスペイン舞踊にもなっています。スペイン国立バレエ団は日本でも「メーデア」を何度か上演しています。当然ギリシャというよりもスペイン色の濃い舞台でしたが、このこともギリシャ悲劇の世界性を示すものだといえましょう。
 映画にも凄いのがありました。パゾリーニ監督の「アポロンの地獄」は心理学のエディプス・コンプレックスの語源にもなった「エディプス王」をそのまま映画化したものでしたが、映画独自のリアルな映像が観客を圧倒しました。いっぽうアンソニー・パーキンスとギリシャの女優メリナ・メルクーリが主演した「死んでもいい」は、さきほどの「フェードラ」を現代におきかえたもので、義理の息子に恋する女の悲劇は、ギリシャ悲劇の現代性をアピールしていました。等々。
 今回の王子ホールでの舞台はギリシャ劇の野外の大舞台でなく、室内の小空間で、音楽と演劇、舞踊を一つにまとめた小規模の音楽劇とでもいえましょう。白い布を束ねて大きいギリシャ柱を並べたような装置の前に、8人の演奏家の室内オーケストラが並んでいて、台本構成と作曲をした笠松泰洋氏が指揮をします。そして朗読の女優が一人、ソプラノ歌手が一人、女性ダンサーが出入りして、数役を演じ分けるのです。一人でいくつかの役を演じるのは大変でしょうが、日本には落語や一人芝居があるので不思議ではありません。音楽はことさらに奇を衒わず流れるようで、歌と演奏はつかず離れず、時に重なり時に交代しており、部分的にジャズっぽいアドリブで応答するスリルもあります。そしてH.アールカオスの白河直子が例の如く大島早紀子の振付で渾身の動きを見せていました。
 この舞台、伝統的なギリシャ劇とは全く違った形式や表現手法を用いてはいるのですが、演者や演奏者たちのレベルが高いこともあり、視聴覚の双方から楽しむことができたのです。
 この舞台は本来の古典的なギリシャ劇とはかけはなれてはいますが、21世紀になったいま、こういう舞台もあってよいし、説得力もありました。昔ながらの伝統的な舞台を知っていれば、この舞台の特色もわかってさらに面白いような気もしますが、予備知識なしに見てもそれなりの楽しみかたはできると思います。僕たちは自分の好きなジャンルを早々に決めてしまう傾向がありますが、特定のジャンルにこだわらずこういう舞台を虚心に楽しむのもいいかも知れません。この3部作は、来年、再来年もつづくそうなので、興味があるかたに一見をおすすめします。

 




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