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幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
Vol.80 「舞踊とことば・・・舞踊のもつ表現特性を理解して・・・」

2003年6月11日

 このウェブサイトを運営している(株)ビデオのスタッフ、金子さんにこんなことをいわれました。「この間ある演劇を見てきたのだけれど、とても感動した。舞踊でもせりふを入れたりしたほうが、もっと感動的なものになるのではないか」。私は次のように答えました。「たしかに、意味のよく分からないダンス作品は多く、せりふがあれば分かりやすいとは思う。舞台を初めて見る人には、せりふがある方がとっつきやすいかもしれない。しかし、舞台愛好家、少なくとも私は、ことばではなく身体で表現するものを見たいと思っている。率直にいってせりふがあると邪魔に感じることが多い」と。
 このような言いかたをしたのは、実はその直前に見た鈴木レイ子さんと前田清実さんの「STAY HERE」という公演で、そのことを感じたばかりだったということもあったのです。この公演では、まず肉体劇として『アンチ グェール』(構成竹邑類さん)が上演されましたが、これは上の2人と清水典人さんの3人のダンサーと演劇界から立川三貴さん、歌手のエミ・エレオノーラさんというメンバーで、踊りもありますが、ダンサーもせりふをたくさんしゃべるものでした。別にダンサーのせりふが下手とかいうのではなく、作品の意図は分かるのですが、ダンスに加えてことばを聞き取り、意味を理解するのには苦労しました。これは私だけでなく、ベテランの舞踊ジャーナリストのTさんとも、「せりふがあると疲れるね」、と話し合ったものでした。それに対してこの公演のもう一つの作品ダンス・ショウ『デッサンのあとで』は、とても楽しめるもの。とくに、ミュージカル「パジャマ・ゲーム」のなかの『スティームヒート』は何回見ても凄い、傑作です。心なしかダンサーたちも伸び伸びと楽しんでやっていたように思いました。
 ただ、ここでお断りしておきますが、私はけっして演劇的なものを好まないわけではありません。このページでも前に書いたと思いますが、端的には[バランシン(シンフォニックバレエ)よりも、チューダー(心理バレエ)のほうがずっと好き]なのです。この点は後でさらに取り上げます。
 さて、話を戻しますが、金子さんがとても感動した作品だという『エレファント バニッシュ』を見にいってきました(世田谷パブリック)。この作品は村上春樹さんの英語版「The Elephant Vanishes」にもとづいてサイモン・マクバーニーが演出、男性3人、女性4人の邦人出演者がロンドンで演出家とワークショップをして舞台にのせたもの(日本語)です。たしかに装置と映像が一体化し、TVセットなどが空中を飛び回り、舞台を縦に90度回転させるような工夫もあって、視覚的にも面白い部分もありました。ただその中心となる長いモノローグは、もちろん日常語ですから意味は分かるのですが、結局はなにがいいたかったのか、たとえば象が小さくなって象使いとともに消えたという、タイトルにもなっているせりふの、そして象のもつシンボルとしての意味は良く理解できませんでした。たしかに、この眠れない主婦が語る歯科医である夫や子供との関係、さらにその前段のパン屋に強盗に入る夫婦の話にしても踊りでは表現不可能です。この作品はとくにせりふ劇ともいうべきもので、ことばが伝達の手段であり、踊りから受けるものとは少し違うような気がしました。多分、演劇ファンはこれで十分に意味を理解して共感とともにその深さに感動するのでしょう。
 
 演劇のなかにも、そのことばの意味するところを頭で理解して、というものばかりでなく、せりふや演技から直接に感動するというものもあります。しかし、舞踊と演劇、というより、正確にはことばによる表現と身体の動きによる表現とはその見方、感動の仕方が違うような気がするのです。たとえば、『ロミオとジュリエット』、これは演劇と舞踊とでは大分表現の仕方も、したがって見方も違うでしょう。もちろん、それぞれに感動する人は多いでしょうが、これを混ぜたからといって演劇ファンにも舞踊ファンにも面白いものになるとは限らないのではないのでしょうか。
 オペレッタやミュージカルはどうなんだ、歌も踊りもせりふもあるではないか、という意見もあるでしょう。これはこれで芸術のジャンルとして結構だと思います。たとえば、『ウエストサイド物語』は、たしかに“ロミ・ジュリ”のミュージカル版の傑作です。
 私がいいたいのは、舞踊作品のなかにせりふを入れればもっと分かりやすく、感動的なものになるとは限らないということなのです。たとえば、これもいつもいっている、バレエで私が一番好きな場面の一つ、『ジゼル』の冒頭、彼女とアルブレヒトとの出会い、これをせりふにしたら、どんな名優であっても、バレエにおけるほどの感動はえられないでしょう。チューダーの『ライラック・ガーデン』にも、せりふでは絶対に出せない感動的な場面があります。もちろん、演劇には演劇として感動的な作品、場面はたくさんあります。私は演劇や映画も嫌いではありませんし、それを見て感動することも数多くありますが、舞踊作品にせりふをいれるのとは少し違うと思うのです。ただし、『ジゼル』をストレートプレイ(純演劇)にしたらどうなるかは、少し興味はありますが。
 現実には舞踊作品にせりふやことば(ナレーションなど)を入れることは、多くの振付者がやっています。思いつくだけでも、ピナ・パウシュさんは当然ともいえますが、ベジャールさん、ノイマイヤーさんも、さらにキリアンさんも昨年の作品にダンサーが自己紹介しながら踊る作品がありました。わが国でももちろんあります。コンテンポラリー系には多いですし、クラシックバレエでも清水哲太郎さんがダンサーたちにハミングさせたり、掛け声をかけさせたりしたいます。
 こういう方法や作品をすべて否定するわけではなく、さらに、作品解説などでより理解を深めてもらったり、あるいは理解の手掛かりとなるようにタイトルに留意することも必要でしょう。理解がなければ真の感動なしであり、本質的には先の金子さんのいうことが望ましいのかもしれません。ただ、意味が分かることと感動とはイコールではありませんし、身体というのは貴重な表現手段であって、歌やせりふにはない特徴をもっているということを忘れないで欲しいのです。せりふやナレーションを入れるとしたら、それはあくまで身体による表現をより強化するためのものであって、せりふに逃げたり頼ったりするようなものであってはいけないと思います。
 もちろん、他ジャンルとのコラボレーションはドンドンやっていただきたいし、舞踊、音楽、演劇などを融合した新しいスタイルのパフォーミングアーツにチャレンジするのも大変結構です。ただ、その際でも、舞踊という貴重な表現手段をぜひ有効に活用して欲しいのです。
 これは舞踊旧人類の繰り言かもしれませんね。 

 

 




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