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ニュース・コラム

ロンドン在住・實川絢子の連載コラム「ロンドン ダンスのある風景」

ロンドン ダンスのある風景

Vol.19セルゲイ・ポルーニン、ロイヤルバレエを電撃退団

ロイヤルバレエ退団後、1月28日に行われたサドラーズ・ウェルズ劇場でのガラ公演にて、「ナルシス」を踊るセルゲイ・ポルーニン
(c) Dave Morgan

1月24日、英国バレエ界に衝撃のニュースが流れた。〈ヌレエフの再来〉とも謳われるロイヤルバレエ団きっての若手スター、セルゲイ・ポルーニンが、シーズンの最中で突然の退団を表明したのだ。

ウクライナ出身のポルーニンは、13歳でロンドンにやって来た。ロイヤルバレエ学校に入学し、卒業後はそのままロイヤルバレエ団に入団、そして19歳で史上最年少のプリンシパルに昇格と、飛ぶ鳥落とす勢いでバレエ界のスターダムへと一気に上り詰めたポルーニン。現在22歳になったばかりだが、今シーズンも「夏の夜の夢」、「ロミオとジュリエット」、「不思議の国のアリス」、「ラ・シルフィード」など、多くの物語バレエ作品で主役を踊る予定になっていた。華のある容姿と確実な技術、目を見張るばかりのジャンプ力、演劇性を若くして全て備え、今世界中で最も注目を集めるダンサーのひとりとして、ロイヤルバレエ団の将来を嘱望されていた存在だ。

 

そんなポルーニンが芸術監督モニカ・メイソンに退団の意向を伝えたのは、1月24日、初日を一週間後に控えた「夏の夜の夢」のリハーサルのあとだった。公演の直前に突然退団を申し出ること自体が前代未聞で、当然周囲は必死に引きとめようとしたものの、ポルーニンの退団の決意は相当固かったようだ。彼のツイッターのアカウントにはその日、「あと一晩我慢するだけ!そうしたら、次の行動に移るんだ」と書き込まれ、彼の肩書きは〈ロイヤルバレエ〉の文字が消されて〈?のプリンシパルダンサー〉に変わった。

ポルーニンのロイヤルバレエ退団は、テレグラフ紙をはじめとする新聞やテレビニュースでも大々的に報道され、はっきりと明示されない退団の原因と、彼の今後について様々な憶測がなされた。その中で明るみになったのが、ポルーニンの、舞台からは垣間見えない別の一面である。タトゥーショップを共同経営していることや、最近の恋人との別れなどの私生活に関することから、両親の期待のもとバレエのために多くを犠牲にしてきたこと、そして高いレベルを維持して踊り続けることへのプレッシャーがあまりにも大きいこと、そしてなかなか自由の利かないロイヤルバレエ団に対する不満を漏らしていたこと、最近のインタビューで28歳で引退したいと語っていたことなどが次々に報道された。最近では、きちんと団員レッスンに出なかったり、食事等の自己管理が出来なかったりということも多々あったようだ。彼のツイッターへの書き込みに、アルコールや薬物への言及や、意味不明な書き込みが多かったことからも、ポルーニンの精神面を心配する声も多く上がった。

さらに、ポルーニンの英国における労働許可は、ロイヤルバレエ団での雇用を条件に与えられていたものだったので、退団によって必然的に英国での労働許可を失うことになった。来月予定されているイングリッシュ・ナショナルバレエ団へのゲスト出演も、現在どうなるかわからない状態だ。

ポルーニンほどの誰もが認める才能の持ち主であれば、周囲の期待を裏切り、全ての責任をこのように突然放棄しても引く手あまたのはずであり、当のロイヤルバレエ団も、彼が戻りたいと望むのなら、いつでも受け入れるつもりだと寛容な態度を表明している。誰もが彼に踊り続けてほしいと切に願っているにもかかわらず、現時点でわかるのは、彼のダンスに対する情熱が冷めきっていて、ダンス以外のことにより大きな興味があるらしいということだけである。それは、2月17日から23日までの「アリーナ・コジョカル ドリーム・プロジェクト」公演のために渡日する前日、「楽しい時間は終わり。(来日公演で)お金を稼がないと」とツイッターに書き込んでいることからもうかがえる。

ウクライナの小さな村の貧しい家庭に生まれたポルーニンは、両親からのプレッシャーを一身に受けてバレエの道に進んだ。失敗するという選択肢はなかったという。美しい世界の裏の、血のにじむような努力と忍耐の世界に耐え、若くしてバレエを志す者の誰もが望む地位と名声を手に入れたポルーニン。私も、彼がプリンシパルになる前、「ラ・バヤデール」のソロル役でデビューした際の公演を目にしたときの衝撃がいまだに忘れられないが、客席をどよめかせるほどの高い跳躍と、まだ十代と思えない成熟さを感じさせた演技は、彼が次世代を代表する大器であることを十分に証明してあまりあった。でも今思えば、あの時の舞台で既に見せていた彼特有の神秘的な翳りには、もしかしたら演技ではない部分もあったのかもしれない。

確かに突然自らの責任をこのように放棄することは、一般的にはあまりにも軽率であり、大人として褒められた行動とは言えないだろう。ただ同時に、周囲に順風満帆と映っていたポルーニンが、そうでない一面、自分を偽ることの居心地の悪さをストレートに表現し、大胆にもそれを実行に移したその勇気に対しては、応援したいような気持ちもある。どんなに舞台上で完璧に見えるスターであっても、気高さと退廃、輝きと悲しみ、熟慮と軽率のあいだを絶え間なく揺れ動く複雑な〈人間〉という生き物であることに変わりはない。制約があるからこそ、その中でより大きな自由を手に入れる人間もいれば、現状に制約があればあるほど、外へ目を向けずにいられない人間もいる。バレエによって、舞台の上で誰よりも自由に、高みへと昇華しているように見えたポルーニンが、そのバレエによってがんじがらめになり、苦しんできたのだとしたら、それは彼にとってもっとも悲劇的な状況だったのだろう。

ロイヤルオペラハウスでポルーニンが見られなくなるのは、本当に悲しいし、ロンドンのダンス界にとってはあまりにも大きな損失だ。過去にも、ニジンスキーやヌレエフ、バリシニコフらが、祖国で名声の頂点を極めながら、突然全てを捨てて新天地へと旅立ち、周囲をあっといわせた。彼らは皆、その後新境地を切り開いていったが、ポルーニンはどこへ向かっていくのだろうか。ファンとしては、踊りをやめることだけはしないでほしいと思うが、今後彼がどんな決断をするにしても、このことが彼にとって人間としての成長に必要なステップであったということを、新しい姿で私たちの前に現れて証明してくれることを願っている。

實川絢子
實川絢子
東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。現在、翻訳・編集業の傍ら、ライターとして執筆活動を行っている。