D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

ロンドン在住・實川絢子の連載コラム「ロンドン ダンスのある風景」

ロンドン ダンスのある風景

Vol.254月18日イングリッシュ・ナショナル・バレエ 「エクスタシーと死」

昨年夏にロイヤル・バレエを退団し、イングリッシュ・ナショナル・バレエ(以下ENB)の芸術監督となったバレリーナ、タマラ・ロホ。前回のコラムで、彼女のロイヤル・バレエでのサヨナラ公演「マルグリットとアルマン」のことを書いたが、今回は、彼女が芸術監督として初めて手がけたトリプル・ビル「Ecstasy and Death」(エクスタシーと死)のことをお伝えしたい。

ロホが芸術監督に就任してから、ENBがこれまでに上演したのは、「眠れる森の美女」と「くるみ割り人形」の古典バレエ二作品。今回が初めての現代バレエのトリプル・ビルということで、彼女のプログラミングのセンスに注目が集まった。結果から言うと、観客動員は残念ながらあまりよくなかったようだが、内容そのものは非常に見ごたえのあるトリプル・ビルだった。〈エクスタシーと死〉という目を引く官能的なテーマのもとに集められたのは、キリアン振付「小さな死」、プティ振付「若者と死」そしてENBの十八番である「エチュード」の三作品。なかでも目玉は、来季で引退するパリ・オペラ座のエトワール、ニコラ・ル・リッシュがタマラ・ロホと共演した「若者と死」だった。

ecstasydeath_Rojo and le Riche, David Jensen 「若者と死」 タマラ・ロホとニコラ・ル・リッシュ

二人の作り上げた「若者と死」の世界は、ユニークかつ迫力に満ち満ちており、ニコラ・ル・リッシュは、幕開きのベッドでタバコを吸っているシーンから、その張りつめた緊張感、いたいたしいまでの官能と絶望の表現で、一気に観客を舞台に引きこんだ。とても四十代とは思えない高い跳躍と、欲望の対象である女=死神役のロホにサディスティックにいたぶられ、もう本当に死んでしまうのではないかと思わせるほどの刹那的な踊りは、今の、引退を目前にしたル・リッシュだからこそ体現できるものなのかもしれない。

「メトロ」紙のインタビューで、ロホは十七歳のときからル・リッシュに憧れていて、芸術監督という立場を有効利用(?)してこの共演が実現したと茶目っ気たっぷりに公言していたが、若者が恋焦がれる対象である謎めいた女の役を、より肉感的で人間的な女として演じた点でとても新鮮に映った。ミステリアスな役が、コミカルにすら見えたから不思議だ。円熟期の二人のスターダンサーが、お互いのエネルギーを100%ぶつけあうことで生まれる、ひりひりするくらい刺激的な世界。パリ・オペラ座バレエのダンサーがロンドンに来ることはあまりなく、エトワールでも英国では知名度が低いからか、このようなまたとない公演にもかかわらず空席が目立っていたのが本当に惜しい。

ecstasydeath_petite mort_ENB David Jensen 「小さな死」 タマラ・ロホとニコラ・ル・リッシュ

「若者と死」と同様に、もしかするとそれ以上に印象的だったのが、このバレエ団で初演となったキリアンの「小さな死」だ。ENBのダンサーたちが、こうしたコンテンポラリー作品中で、こんなにも伸び伸びと、洗練された造形をうみだしていくさまを見たのは初めてかもしれなかった。シームレスに展開していく曲線的な波のような動きと、男女の間の緊張感が、モーツァルトの有名すぎるピアノ・コンチェルトとぴったりと重なり、さらにフェンシングの剣に象徴される男性の暴力性と、たゆたう布の中から現れる女性たちの対比が、エッジの効いたイメージを次々と紡いでいく。実は今まで、このバレエ団のコール・ド・バレエが印象的だったことはあまりなかったのだが、キリアンの本拠地であるネザーランド・ダンス・シアターには完成度という点で及ばないとはいえ、今回は何かいつもとは違うエネルギーが舞台の上からあふれでているようだった。

締めくくりの「エチュード」は、ENBがすでに七百回以上上演している、伝統の作品。バーレッスンに始まるバレエの練習風景をモチーフとしたこの作品は、バレエをやったことがある人ならお馴染みのステップが満載だ。毎日毎日、同じステップを繰り返し、高みを目指していくバレエ・ダンサーたち。そのオブセッションともいえる情熱を、〈エクスタシーと死〉というテーマの中に入れたところに、ロホのセンスを感じる。女性プリンシパル役は、バレエ団のベテランである日本人バレリーナ、高橋絵梨奈。そして男性プリンシパル役は、若干二十二歳ながらバレエ団最高位のシニア・プリンシパルに昇進したばかりの、今世界中で話題のヴァディム・ムンタギロフ。ムンタギロフは、これまで時々見られた硬さがすっかりとれ、打ち上げ花火のように華やかで印象的な高い跳躍、ブレのない回転を難なくこなしてプリンシパルの貫禄を見せ、観客の喝采を独り占めにしていた 。

新しい〈踊る〉芸術監督の下、生まれ変わりつつある新生ENBの片鱗を見ることが出来た、興味深いトリプル・ビルだった。

ecstasydeath_Etudes 「エチュード」 タマラ・ロホとニコラ・ル・リッシュ

實川絢子
實川絢子
東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。現在、翻訳・編集業の傍ら、ライターとして執筆活動を行っている。