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ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

  2004.4/15
「花の命は短くて」

 去年の初秋、急に具合が悪くなって、物を書くのもきつくなったのでこの欄も引退させていただいたのですが、また桜の季節がやって来たので少し元気になりました。劇場で「ビデオ」の社長やスタッフに見つけられ、たまには何か書けといわれたので久しぶりに何か書いてみようかということでまたかといわれそうですが、桜の話から・・・。
 東京での桜の開花宣言は今年は早くて3月18日でしたが、そのあと寒い日が続いて開花がおそくなり、散るのもおくれて、おかげで3週間ほども染井吉野桜を楽しみました。僕は賑やかな桜の名所にも行きます。花見は桜を見るもので酔っぱらいの騒ぎを見るものではないと否定的な人もいますが、大賑わいの花見も楽しいものです。花だけでなく人々の顔も花が咲いたようで純粋に嬉しそうに見えます。いっぽう山の中のひっそりとした一本だけの桜も素敵です。ところが近年は山奥の名木を見ようと人々がつめかけて交通渋滞です。嬉しいような悲しいような・・・。だったら名所でなくてもご近所の桜でもいい。桜は見る人の気持ち次第でどれもすばらしくなります。今朝窓を開けたらおとなりの八重桜が咲いていて陽春の光を浴びていました。借景といったありがたいことです。
 今年は珍しく長い間桜を楽しみましたが、いつもはあっという間に桜の季節が去ってしまいます。花の命は短くてということです。子供のころ百人一首でお得意の取り札だった「花の色は移りにけりないたずらに わが身よにふる眺めせしまに」という名歌は日本史上最高の美人とうたわれた小野の小町の歌です。昔は意味もわからなかったのに年を取るにしたがって実感が迫って来ます。ぼんやりと年月と過ごしている間に花のような容色も衰えてしまったと嘆く歌ですが、これは能や日本舞踊でも百歳になってヨボヨボになってしまった小野小町が舞い踊る作品があって、これも年齢を重ねるとわかって来るのです。僕なんか容姿だけでなく体力や知力が衰えて、立ち上がるにも座るにもドッコイショと声が出てしまいますし、物忘れがひどくなって、日記をつける時にきょうのことも思い出せない時があります。ぼんやりと年月を過ごしてしまったと反省もしますが、それだからいままで生きて来られたとも思います。物は考えようでしょうか。偉くなりたいとか金持ちになりたいとかいう気持ちがあまりなかったおかげで、努力とかガンバリがなかったのでしょうが、そのおかげでわかって来たこともそれなりに多いようです。年をとってからのほうが他人の考えていることがわかるようになったとも思います。ということで、日本では老人をなんとなく馬鹿にしたり敬遠する傾向がありますが、素直に先輩のいうことに耳を傾けるといいことがあるかも知れませんヨ。
 高年齢の人々が集まると、年々時間が過ぎるのが早くなるようだという話をよく聞きます。時間の流れはいつも同じなのに、だんだん早くなるように感じる理由はいろいろあります。次第に雑用が多くなるのに処理能力が衰えて来るなど何をやっても時間がかかってしまうこともありましょう。さらには人生の残り時間が少なくなり、先行きが見えてしまってあせりが出て来ることもありましょう。僕なんか近年は来年も桜が見られるかと心配で、一生懸命生きているんです。
 しかし桜だけでなく一年中いつでもどこでも自然の恵みを享受するのが大切です。つい先日、近所を歩いていたら、門柱の脇に小さいスミレがかたまって咲いていました。西洋伝来のカラフルなパンジーが圧倒的に多いのに、日本の小さいスミレの可愛らしさに感心しました。「山路来て何やらゆかしすみれ草」は芭蕉でしたか?山道でなく都会でも見ようと思えばスミレも見られます!しばらく立ち止まって再び歩き出すと歩道の端っこにタンポポが咲いていました。スミレタンポポと来ればレンゲソウとつづくのが常識ですが、このところレンゲソウはトンと見られません。昔、列車の窓から田園いっぱいのレンゲ草の群れを見てその美しさに、びっくりしたことがありました。あとであれは肥料にするのだと聞いてもう一度びっくり。長いスパンで考えますと植物にも栄枯盛衰があるのに気がつきます。そして植物だけでなく動物、さらに人間社会についても同じことがあてはまるのではないでしょうか。
 さて、スミレ、タンポポと感心している間に毎日少しずつ季節が移り、花も変わり若葉も色を増し緑が濃くなりやがて紅葉、そして冬は枯木に、そしてまた春!自然の移り変わりを見つづける間に人間が作りあげる文明も進歩したり変化したりします。機械などもどんどん変わってついて行けないものばかり・・・。それでも芸術は姿を変えながらも僕たちの心を慰めたり感動させたり、元気にしてくれたりします。だから公演を見たり聴いたり、展覧会場に通ったりするのです。ところがこのごろの新しい芸術には人を感動させるものが少なくなっています。それが現代芸術の特質だといってしまえばそれまでですが、芸術だと称していてもニセ物が多すぎるようです。一日一日と正確に時が過ぎ、僕の人生も残り少なくなってくるのを実感しますと、つまらないものを見たり聴いたりする時間が惜しくなってくるのです。そうなると僕たちは老人になる前に本物の芸術かニセの芸術かを見分ける能力を身につけておいたほうが人生が豊かになりましょう。そのためには森羅万象、あらゆるものを心を込めて見て感じて自分のものにしておくことが必要になります。
 地球の何十億年の間に生成した自然にはニセ物はありません。花でも石でも何でも、長い時間をかけて創造された完成品ばかりです。それに対して芸術と称する多くの物事の中にはハッタリで作ったり、偶然で出来上がってしまったものも少なくありません。その中から本物を選別することは大変な作業でもあるのです。そのためにはまずは自然の中の秩序立った美を汲みとったり、すでに古典となっている本物の芸術を見聞して自分のものにして視野を拡大して行くことが先決でしょう。
 僕なんか早くに才能が乏しいのがわかってしまったので、芸術家にはならず芸術を楽しむ側にまわってしまったのですが、それがかえっていまでは得をしたと思っています。それでも芸術を楽しめるようになるには相当の時間がかかったことを申しあげておきます。
 さて、僕はありがたいことに幼少時からいろいろな芸術に触れることができました。早くに舞踊に親しむことができたのも幸運?だったとも思っています。こういった総合的な舞台芸術をものにするには他の芸術に親しんでおくことが必須のことです。ところが実際にバレエなどを習っている若い人たちは、バレエ一筋になってしまい、脇道を見ないで一直線に進んでいるようです。他のジャンルのことを考える余裕がないんですね。残念!
 先日、例年のように東京新聞の全国舞踊コンクールのバレエ部門の審査に出向きました。これも例年のように驚異的なテクニックの持ち主が何人かはいます。子どもなのに世界でも有数の表現力を誇示する人もいます。しかしこれはヴァリエーション1曲だけについてのことだと思います。これからが大切だと思います。ガンバレ!
 3月末にはこれも春の風物詩となった「ヤング・バレエ・フェスティバル」を見ました。いつもの「パキータ」と「卒業舞踏会」なんですが毎年のように若い人たちが初登場してリフレッシュしてくれます。しかしこの人たちのうちだれがおとなの芸術家になって充実した舞台を見せてくれるでしょうか?「花の命は短くて」と途中で消えてしまわないで欲しいと祈らずにはいられません。
 バレエが現代に通用する芸術として通用するには創作バレエが大きい役割を果たします。このフェスティバルではこのところ若手・中堅の振付家の作品を一つ紹介しています。これも楽しみです。ここで発表された作品も一回だけでなくくり返し上演される名作の仲間に入ったらすてきだなと考えます。そのためには舞踊家も観客も、自然のすばらしさや他の芸術のすばらしさをものにして欲しいと痛感するのです。桜の話など無駄だと思われるかたも多いと思います。いつも同じようなことを申しあげますが、いつも思いつづけていることなのであえて申し上げます。お許しください。