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幕あいラウンジ バックナンバー

  2004.2/17
「パリの先生方」

 今回は、昔々のパリのバレエの先生のお話をしましょう。
 パリにはいくつかのスタジオが集ってひとつの建物になっている「ダンス・スタジオ」と、劇場の楽屋のリハーサル室を借りている先生、自宅の中にプライベートなスタジオを持っている先生方がいます。

シュワルツ先生
元パリ・オペラ座のプリマのシュワルツ姉妹がやっているスタジオは、「ピガール」と云う地下鉄の駅から5分位 の所。ヤクザのおニィさんたちや、夜のおネェさんたちがたむろしている路地をぬ けると(これがちょっと恐ろしかった)、突然高級住宅が数軒現れます。その中にシュワルツ先生の御自宅とスタジオがありました。私は妹のネリー・シュワルツ先生のクラスでした。
 先生は、月曜日にその週にやるステップを教えられます。そして土曜日まで、毎朝そのステップをくり返します。これは、とても良いやり方だと思います。私も東京で試みてみましたが、子供は塾、大人はバイトだ仕事だ、で休んだ人たちが出て来てとまどっているのをみると、気の小さい私は続けられませんでした。

オルガ・プレオブラジェンスカ先生
 シュワルツ先生のレッスンが終わるとすぐ、私は裏通りを走って「プラス・クリッシィ」にあるスタジオ・ワッケーに飛び込みます。
 11時からオルガ・プレオブラジェンスカ女史のレッスンです。オルガ先生は、元レニングラード・バレエのプリマ、バレエ史の本などにもよく出て来る高名な方です。
 とっても小柄で、いつも白いニットの上に紺のジャンパースカートで、ブリキのじょうろを持って立っています。床がやわらかい良い状態を保つ様、時々水を撒きます。
 そして、大男がたく山現れて混み出すと、ピアノの横の椅子の上に立って、後の方もみて下さいます。
 先生御自身がパリではエトランジェ(外人)と云うこともあって、外国人をとても可愛がって下さいます。私も、最初はとても可愛がって頂いたのですが・・・・・
 先生がだんだん冷たくなりました。
 私は一生懸命やっているのに-
 良く出来ないと落ち込んで暗くなる私-
 叱られると涙ぐんでしまう私-
 「そんな陰気な顔はみたくない!!出て行け!!」(ア・ラ・ポルト!!)とプレオ先生に云われるまでになりました。泣きながらドアを開けて帰ろうとすると、アシスタントのニコラ氏が「そう云われて帰るバカがいるものか!!そこで待つんだよ!!」
 あまり上手でないロシア人の男の子がいました。廻るものになるとヨロヨロとよろめいて私の方に倒れてきます。そして、「マダム・プレオ、あの中国人が私にぶつかったから廻れなかった!!」と告げ口。
 私は、レッスンに行くのがつらかった。でも、重い脚を引きずりながら顔だけは出していました。そのうち私は、先生に好かれる生徒のタイプがわかってきました。
 明るくて、元気で、叱られてもめげないで、「何くそ!!」と云う態度で猛然とやってみせて、上手く行くと、「どうだ!!」とうれしそうに先生の顔をみる!!
 そうなると先生も、「ニャー」と猫の鳴き声をして、その生徒の顔をうれしそうに引っかく真似をする-。けいこ場中に笑いがあふれ、みんな楽しくなる。(マダム・プレオは猫好きで、うれしいとよく「ニャー」と云われました)
 或る日、私は、先生に冷たくされているアメリカ人の男の子を観察してみました。彼はどんどん落ち込んで暗くなって、いじけて行き、今まで出来たことまで出来なくなる-
 そう、私と全く同じなのです。他の冷たくされている生徒たちにも共通 の「何か」がありました。
 先生が可愛がっているダンサーは、「お早う」と云ってバーに着くと、けいこ場の中がパッと明るくなるのです。明るいオーラが出ているのです。
 私は、変ろう、努力しました。そして、とっても愛される生徒の一人になりました。それからパリの楽しかったこと。
 マダム・プレオの11時からのエトワール・クラスには綺羅星の如くスターたちが並んでいました。その人たちが現れると、けいこ場が本当にパーッと明るくなるのでした。
 マダム・プレオは、「舞台人とはどう云う人であるべきか」を教えていたのですね。
 当時、先生はもう87才になっておられ、同じことをくりかえされるときもありました。
 フェッテが終ってすぐ又、「フェッテ」と叫ばれるので、私たちは口をとがらせて、「今やりましたーっ」。
そんなときロゼラ・ハイタワーさん(人気のプリマでした)が、「だまって!!もう一度やればいいじゃないの!!」率先してやるのでした。
 「良い舞台人」と云うのは、「やさしさ」も必要なのですね。
 マダム・プレオは情熱の人でしたが、独身を通され、たく山の鳥と猫に囲まれて暮していらっしゃったので、最後はとても大変だった、と聞いています。お金は、アシスタントのニコラ氏が全部持って逃げたので、先生と、鳥と、猫の世話は、エトワールたちがお金を出し合ってみたとのこと。
 今、私は教える立場になって、マダム・プレオの教えの正しかったことをしみじみ実感しています。「先生ごめんなさい。私は本当にオバカさんでいろいろご迷惑をかけました。」
 マダム・プレオは、私の生き方を変えた唯一無比の方でしたが、パリには他にもすばらしい先生や、面 白い先生がいました。

ウッド氏
 ソニア・アロワさんが心腹していた先生で、身体を真っすぐにするためのトレーニングはとても良いのですが-。競馬狂いで、レッスンの時、それぞれに馬の名前を心の中であてはめます。そして、その日調子の良いダンサーに賭ける-のだそうです。なんだか、ねェ。

ボリス・クニアゼフ氏
 床に寝たままやるバーレッスンを開発したので、めずらしもの好きのパリっ子たちでクラスは大入り満員!!浪曲の広沢虎造にそっくりな声で、「しょんべんしてる様なかっこうすんなよ!!」とか「牛のクソみたいに落ちてきやがって!!」とか悪口雑言。それがけっこうおかしくて人気があったみたい。

ビクトル・グゾフスキー氏
 「グラン・パ」の振付で有名な方でしたが、プレオ先生の弟子だったので、「師がパリで教えている間は-」と決してパリで自分のスタジオを持ちませんでした。
 もっぱら、あちこちの講習会で講師をやっていました。長身のオジンで、いつも若く美しい女の子といっしょでした。バーレッスンの間、ピアノの上においたコカコーラを時々飲んでいました。センターレッスンの頃はホロ酔い状態でした。コカコーラの瓶の中はウィスキーだったのです。でも、すばらしいレッスンでした。

 この次は日本のすばらしい先生方のお話をしましょう。