[~らしさ]を、『眠れる森の美女』で考える
日本バレエ協会神奈川ブロック、演出・振付 夏山周久
この前、私は「演出」について考えるとして、『くるみ割り人形』について、具体的に説明してみました。しかし、それは一般論だったので、今回は実際の公演を取り上げてみたいと思います。
それは日本バレエ協会関東支部神奈川ブロックの40周年記念、第35回自主公演の『眠れる森の美女』です。この作品もご存じのとおり、『くるみ割人形』と同じチャイコフスキー音楽、マリウス・プティパ振付で、クラシックバレエ(長いので以下古典とします)のなかでも、もっとも完成された作品といわれています。
古典の条件はまず形式です。この『眠り~』は、王侯貴族と妖精の世界を舞台として、プロローグとアポティオーズ(最後の全員の祝典)をもち、主役2人のグラン・パ·ド・ドゥなどダンス(舞曲)とマイム(情景)を巧みに組み合わせて、物語を進めています。さらに、そこに品格と豪華さが感じられるのが、この作品が古典中の古典といわれるゆえんです。最近の、とくに海外の古典の演出にはマイムを軽視する傾向が見られますが、しっかりと、そして美しく演じられるマイムは古典の絶対条件。ただ踊りだけを並べるのなら、組曲かコンサート形式で十分です。
さて、今回の『眠り~』は夏山周久さんの演出・再振付。夏山さんはもと東京バレエ団でプリンシパルをつとめ世界的に活躍、現在は大阪を中心に指導、そして全国各地で多くの作品の演出・振付を行っています。彼の古典の再演出・振付は、演出という点から見ても、作品をまず全体として大きくとらえ、部分をていねいに分かりやすく組み合わせていくもので、きわめて精緻で説得力のあるものです。もともと長い作品ですが、物語の進行に直接かかわらない部分をカットしてうまくまとめています。これは海外の著名な振付者の『眠り~』の演出に比べ、これらの点では圧倒的に優れています。
私は、振付や出演者についてももちろんそうですが、とくに古典の演出という面からみるとき、[~らしさ]、ということを考えます。作品としては[古典らしさ]、ですが、もっと具体的に各役や場面について、こういう視点から実際の舞台をみるのです。まず場面とは、たとえば、プロローグでしたら[オーロラの誕生祝い] らしさ、第3幕のオーロラと王子のグラン・パ・ド・ドゥでしたら[幸せな結婚の踊り]らしさが十分に表現されているか、です。さらに具体的には、第1幕、いわゆる「ローズ・アダージョ 、そしてヴァリエーション」では、[16歳を迎えた純真な姫と、彼女に求婚する4人の王子]らしさ、が描かれていることが必要です。ここの夏山さんの演出では、初めての経験にはずかしがるオーロラ(浅井蘭奈さん)、競って目分を彼女にアピールする4人の王子、それに徐々に応えていくオーロラが明快に描かれ、求婚者たちの踊りも挿入されて、出演者もそれをきちんと演じていました。浅井さんは、踊りのあとのレヴェランスも控え目で、後の幕のそれとははっきりと違いを見せていました。このように、全体としてそれぞれの場面の意味をしっかりと伝える演出でした。
次いで個々の役について[らしさ]を考えてみます。
プロローグは、高比良洋さんのカラボス[らしい]好演もあって、とてもよくまとまっていました。そこで[王]らしさ、をみてみます。私は王は、常に堂々、毅然としていて、慌てたり、許しを乞うたりはしてはならないと思います。ここでもフロレスタン王の原田秀彦さんは、カラボスの、オーロラは将来編み針が刺さって死ぬという呪いに対して、慌てず、対応をリラの精(京峰舞さん)にゆだねます。ここでは高比良さんに対する平京峰さんの明確な演技もあって、この物語の重要なポイントがきちんと表現されました。ただ、敢えていうと、カラボスがなぜ自分を誕生式に呼ばなかったのかと迫ったとき、カタラビュツトのせいにしたこと、ここはむしろ王が自分の責任にしようとして、そこにカタラビュツトが自ら言い出す形のほうが[らしかった]のでは。どこかの国の先生のように秘書や役人のせいにしてはいけませんね。
第1幕のオーロラの倒れる場面も、他の動きの邪魔にならないように、しかしはっきり
と針で刺されたということを示します。ついでリラの精がオーロラは死んだのではなく眠っただけと説明し、プロローグ(眠るだけで、素晴らしい男性のキスで目が覚める)を思い出ださせながら『眠れる森』の意味をしっかりと伝えます。
さて、王子ですが、デジーレ(デザイヤー) という名のとおり、だれからも望まれるような素晴らしい男性なのですが、実は物語の上では中心ではないのです。演出という視点からも、中心はオーロラ。彼女の異なる状況における「らしさ」の表現、すなわちデビューしたばかりの純真な乙女らしさの第1幕、王子に対しての眠れる美女の幻影らしさの第2幕、そして愛を知って幸せあふれる女性らしさの第3幕。女性主体でそれを補佐する存在としての男性、この関係もいかにも古典らしいといえます。
これに対して『白鳥の湖』や『ジゼル』では、少なくともドラマ(物語の性格や心理の重要度)という意味では男性が中心的な役割をはたしています。王子が愛と同時にみずからの未熟さを知り、それによって人間として成長する『白鳥の湖』、2人女性の間で葛藤、悔悟するアルブレヒト(『ジゼル』)。実は、どちらも舞台に始めに登場し、最後までいるのは男性です。これは作品(物語)という面では、男性が主体であるという事です。この点からも『眠り~』は逆(オーロラの方が先に登場)、つまり物語の軸は女性なのです。この原則からしても『くるみ~』は、物語上はクララが主体であることが分かります。
オーロラが主体の『眠り~』でも、男性(王子)の性格はどうでもいいということではありません。ここでの要点は、第2幕で最初に登場するときの王子の心理です。つまり、なぜ彼はリラの精の薦めによってオーロラに惹かれ、困難を乗り越えて彼女にキスをする事になり、それによって幸せをつかんだのか。それは彼が、何か満たされないもの、心の空虚さを感じていたからです。それは、王子の一行が一緒に狩りに こうといっても、ひとりにしておいてくれとして、それを断るところに端的に表れます。幸せ一杯だったら、先頭に立って狩りに行き、リラの精の誘いには乗らなかったでしょう。
古典バレエとしては、主役の登場は華やか、あるいは印象的でなければなりません、したがって悩める王子としての登場はなかなか難しい。王子役の奥村康祐さんは、新国立バレエ団のプリンシパル。新国立以外でも王子の経験豊富、まさにプリンス・シャルマン(魅力的な王子)そのもの。技術的にも安定感を高めています。ただし、心の空虚さを感じている魃力的な王子という「らしさ」については、演出の問題も含めてさらに突き詰めてほしいところ。その点、オーロラ( 第1幕)は、美しく、若さにあふれた登場ですから、そこはやりやすい、しかし求婚者の祥在を知ってからは、それを意識した乙女らしい表現が大切になります。
さて第3幕、オーロラとデジレの結婚式の場。王室の祝事らしく豪華で華やかでなければいけません。まず美術・装置、今回の第3幕は、らしさ十分、 王、王妃の玉座もそれまでややものたりなかったのに対して、滅法豪華。グラン・パは新郎新婦らしく幸せ一杯、細かいことを言うとオーロラは家つき娘、浅井さんは前記したように第1幕(ローズの場)の控え目に比べてレヴェランスなども大分自己を主張していました。デジレは義理の両親の前でやや緊張気味です。ヴァリエーションで挽回という設定。ディヴェルティスマンはお祝いの気持ちと王室への敬意をこめて、リラの精は守護神らしさがよくみえました。京峰さん健闘。今回は個々の踊りについてでなく、演出、「~ らしさ」という点に主眼をおいて考えています。この点で、最後の全員のコーダからアポティオーズも、古典の形をきちんと示して終わり、この慕も演出的には全体によく考えられていました。
2020.1.19 神奈川県民ホール
舞踊評論家
本名 市川 彰。慶応義塾大学バレエ研究会において、戦後初のプリマ松尾明美に師事、その相手役として、「ジゼル」、「コッペリア」などのほか「ラ・フィユ・マル・ガルテ」のアラン、リファールの「白鳥の死」の狩人役を日本初演。企業勤務の後、現在大学で経営学を講義しながら舞踊評論を行っている。 各紙・誌に公演評を寄稿するほか、文化庁芸術選奨選考委員、芸術祭審査委員、多くの舞踊コンクール審査員、財団顕彰の選考委員などを務めている。