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幕あいラウンジ バックナンバー
1 テクニックは内容を上回らない 華麗なテクニックで愛を告白して欲しくない。テクニックがあるとしても愛する心情がテクニックを上回らない限り、不快である。ダンスの作為的なテクニックを、時に、疎ましく思うのはそのためだ。乏しい内容を、テクニックで飾り立てても、内容は豊かにならない。だが舞踊公演の多くは、お嬢様の教養コースに財源を見ている現実があり、結果として習熟したテクニックの展示に娘の身体美を内包させる傾向が生まれ再生産される。個々に持っている内容に行き着く前に、慣習と制度疲労が見え、日本を覆っているという否定的な感情も起こってしまう。 1950年代の私は、こみあげる何かを求めたと思う、単なるテクニックの華麗な舞台には、生理的な反発を持った。テクニックが保証してくれるある種の芸術的な高尚気取り、意味あり気にしたてる抜け目無さが、感覚的に受け入れられなかった。名前の付けようの無いこみあげる情動を外側に出すことに夢中になっていた。 「状況」(59年)は、ビール瓶を股間に挟み、水を滴らせる。舞台に溜まった水を、手でたたくと飛沫が輪になる。「黙々さんのたわごと」(58年)は、天井から人体を吊り下げ、重力に抗する身体表現を描く。「若松美黄の近作」(61年)は、脚立に登り、跳び下りる。紙の衣装に水をかけながら踊る。叫ぶ。動作を無数に繰り返す。剃刀の刃を手に忍ばせ、自分の身体を切り、血を流した。これらの欲求は、何なのか、当時の自身では分からなかった。今そこで生まれたての情動表現、ある種の実感の回復だったのだろう。様式的な類型に堕落しない、直裁なもの、何かを模索している混沌とした情熱をこそ愛したのであろう。 私は、舞踊の世界にしらけ、分裂感を抱き、分解し、ゆがみ、悪、醜、エロスなどのリアリティにわずかな可能性を見た。舞踊のテクニックが成立しない何か。テクニックを感じさせない存在。 土方巽君のデビューした芸術舞踊協会の新人公演でサンケイ新聞の景安先生は、私の作品を「正気のサタではない~かかるものが、現代舞踊であるならば、今後観客が一人もいなくなるだろう」と書いた。それから45年以上たつ。内容の乏しさに装飾的なテクニックの華麗、類型的な身体技法は、減らないどころか、かえって増えている。 2 卑近な現実から大きな内容へ 元藤暁子さんが11月亡くなった。2002年、JADEで、彼女の踊る「大烏」を取り上げたことを想い出す。舞踏が集中、緊迫と見られていることに対して、彼女の質は、正反対だった。台の上に立ち大きな布を振り回し、台から降りる時には、頭に載った布を邪険に払い、左右にスライドしながら正面に出てくるときには、集中とか緊迫ではなく女の意識はその肉体に隠れて登場してきたのだと見えた。媚を売るストリッパーの真実感が大きな鉱脈となって見えた。これは実は大切な要因だ。ひどく小さな現実を明らかにすることで、存在の大きな内容を提示することが出来る。 同じことは、土方君が、新宿のどこかの映画館で行った公演だったか、投げ銭を拾う情景を演出した。硬貨を半紙でひねり、舞台に投げ込ませ、彼は、その金を拾った。芸術家が、些細な金に反応し、金を拾うべく面白く演技し、観客のサービスにむくいる。行為の卑しさと、高尚ぶった芸術家の生きる現実を垣間見させた一瞬だった。テクニックの高度な無駄のない緊迫とは反対の、現実に根ざした、のんびりした、どこか抜けた世界でもあった。実は、この土方の方法は、あまり知られていないようにも見える。 3 揃って踊ることに危険が 琉球舞踊の志田先生とお話している時、期せずして同じ思いがあることが分かった。戦後、新しい公民館が各地に出来、開館記念などに、地元の大勢の師匠たちが揃って踊るようになった。日本の民族舞踊に揃って踊る習慣を持ち込んだともいえる。初期には、しかし、タイミングが合わないヒトが独りくらいいて、時には和やかな爆笑を呼んだ。しかし今は、揃った群舞という志向が普遍化し、良く揃うようになった。しかし考えてみると、揃えよう揃えようという気持ちが見えて、本来の芸能の内容、神に祈る精神が、どこかに行ってしまった。北朝鮮の喜び組の演技みたいで、揃った群舞は、最初は目を引く。しかし、踊らされている構図が見えると、根元から、内容が崩壊してくる。実は、学生の舞踊コンクールに、揃うことに対する憧憬が見え、群の堅持として機能していることは、問題である。 話は少し変わる。11月7日、新国立劇場で、プレルロカージュ「春の祭典」を見た。新国立劇場で裸が出てくるのは嬉しかったし、大岩淑子さんが、アフリカダンサーのような雰囲気で、踊っていたのも良かった。また、プレルロカージュの初期の男性二人のデュエットなどは、敬服していた。しかし、カンパニーは良く訓練されよく揃う。しかし、それがマイナスとなる瞬間があったことを例示してみよう。 最初、ピナ・バウシュのTwo cigarettes in the dark(1987年)のように、女性がパンツを脱ぐ。すべての女性が脱ぎ捨てる。男が襲い掛かる。途中、7組のデュエットがそろって、一斉に揃ったエロチックなデュエットを踊る。エロティクな故に、若者達がそろって性行為に励んでいる図柄となった。性行為を、画一化し、デジタル化することは、面白さの影に、公衆トイレのような、大して意味のない内容にもなる。結果として性愛の大きな内容が、性の技巧が勝った内容の乏しいテクニックの集積と堕落した。それならば、それを別な角度から見せる方法もある。あるいは、笑いにまで昇華させる手もある。終曲、無音楽となりダンサーは台の上で身を横たえる。何と振付者は、真面目なのだ。これでは、発想が幼過ぎるように見えた。 身体に一人ずつ地母神が住み着いている。群舞であっても、地母神に向かって踊らなければ、内容が個人の感覚を出ない。 アプロム(Aplomb垂直、均衡、安定)というのは大切な技法である。英語で言えば努力が目立たないEffortlessがなければ、テクニックですらない。内容を広げるためにテクニックがあるのだ。テクニックは内容の整合性を確保するのだと思う。