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幕あいラウンジ バックナンバー

  2004.2/3
「呪術とアニミズム 」

 祈願の成就
あらゆる芸能の原点に、呪術とアニミズムが見られる。死者を悼む葬儀は、ネアンデルタールにも見られた。その証拠は、死者の埋葬に一定のパターンがあること、埋葬された墓に、花粉の痕跡が採取され、花が捧げられたらしいこと、珍しいもの、例えば、山間部に見られない丸い石や、未使用の食器などが、死者の枕元に見られるパターンが多いことなどによる。
古代人の世界観は、自然の観察に拠ったと思われる。毛虫から蝶になる変態を目にして、死後の世界の人間の霊魂を推測したらしいことは、あらゆる民族に見られた自然な発想であろう。
この呪術には三つの要件がある。
1 神秘的な不可知性がある
 2 新奇性を含む
 3 民衆の深層心理に効果を信じさせることをもくろむ
祈願が、真剣であり、厳粛と受け止められなくてはならず、例えば、今で言う麻薬類を火に投げ込み、集団に、ある種の陶酔をもたらすことも技法としてあったろう。祈願者が、俗人でない聖人、あるいは、霊能力の高いキャラである必要もあったろう。場所、行為者、雰囲気すべてが、神秘に満ちた演出を求められたと云える。
 しかも、同じ儀礼類型を機械的に反復することは許されない。過去の事例に、成果が出ない儀式、同じような儀礼類型などは、反省が求められるからだ。例えば、椎葉村神楽には、祈りの途中、ある種の道化が飛び出し、儀式の道具などを四散させ、儀式を壊す。人々は、道具を元にもどし、儀式を再開する。このような伝承は、神に対する呪術が、同じようなやりかたでは、効果がなくなるという経験則からの演出であろう。思いのほか、一回ずつの新奇性が求められている。
芸能は神の恩寵を引き出す媒体であり、禍福の鍵であった。芸能は、神に対して捧げられるが、その芸能が、どの程度効果があるかは、神に伺わなくては判然としない。神に伺えないとすれば、立会人の観客の評価から推測することになる。ある時代を経ると、神に恩寵を祈願する手続きは、神に近い神官や、巫女などに、お願いすることとなり、依頼者にとって効果あり気な祈祷が、人気ある祈祷となる。時代や地域のあらゆる有効な手段を民衆の深層心理から導き出すこととなる。
 このことは、舞踊創作の原点を点検する時に、再考すべき問題でもある。
ポストモダンダンスの固執反復の行為や、脱舞踊技法は、神秘的な不可知性の裾野に入ってのみ有効である。しかも、絶えざる類型化を脱する努力が求められ、日本に多いパターン化したモダンダンス~舞踊コンクールの類型化された技法を排する必要が、ここにあるのだ。日本的な家元制に影響を受けた類型化は、確かに技能の向上に資する面もある。しかし、本質的に、呪術から遠ざかる傾向であることを指摘したい。
あたりまえのことだが、芸能とは、絶えざる革新性を持ち、しかも古代からの大脳旧皮質に訴え、民衆の深層心理を導出する作業を積み重ねなければならない。
 教育舞踊~呪術のガス抜き化
古代社会に隆盛となった呪術は、近代国家において、否定されたが、一方、怨念を抱く階層に対して、ガス抜き効果ともなり得ることに気付いた。
19世紀植民地とは、欧米先進国が、工業生産活動の遅れた地域を、軍事力によって併呑したものであった。トインビーのいう、欧米がもたらした民主的、科学的、合理的な旗印は、端的に、テクノロジーに基づく軍事力に凝集した。この近代テクノロジー、つまり工業化社会は、呪術を押しのけ敗退させた。しかし、工業化社会は、新たな社会階層の対立を激化させ、社会的怨念を生み出した。しかし、古代から階層はあり、怨念もまた存在した。
古代の知恵は、祭りをガス抜き効果として馴化する制度であつた。近代国家は、スポーツや芸能に、この知恵を、採り入れた。しかし教育においては、保守的立場を維持した。
国家の教育は、強国=武力=科学技術の隆盛にある。歌舞音曲から舞をはずし、音楽という言葉を創り1876年(明治9年)文部省音楽取調掛を設置したのは、欧米の列強を見習ったものである。1883年(明治26年)東京師範学校と同女子師範学校において、音楽を正課とした。しかし、日本的フィルターがかかり、ムーサイの舞い歌い演奏する全体像から、ダンスを除いた。ダンスに潜む不可知性を忌避したものであろう。一方、列強における国民の体力向上の戦略は、重要項目である。体育の充実は、ダンスを押しやり、幼児や、児童、そして女子学生のみのダンスを、「遊戯」という名称で取り上げたにとどまった。
この後遺症は、現代においても払拭できないのでなかろうか?日本の現代舞踊は、呪術とアニミズムを欠いて発展した。創作の合理主義、例えば、空間構成技法が発展し、呪術は、感情の枠組みに収められた。一方、アニミズムは、幼児発達に位置づけられ、かつ学校教育の「遊戯」の枠組みで捉えられた。このため、成人が口に出すことは、発育不全とも映じる風土をもたらした。
 呪術とアニミズムの欠落
ケイタケイさんは、世界的な評価が高い舞踊家である。しかし、日本において、彼女の主催公演は、極めて少ない。彼女は「日本で、観客を集めるのは大変だ、外国ではそれほど困難でないのに」と話したことがある。
彼女の作品は、呪術とアニミズムが根幹である。舞踊作家協会、2月1日公演に、ケイさんと平泉緋紗さんは「連れ舞ひ~豆あるいは座布団」を上演した。
緋紗さんは、黒テントの山元清多さんが書き下ろした「台所のメディア」を演じた女優で、一人芝居を続けている。肝臓ガンと戦いながら舞台に立ち、舞台で演じることにより、身体が奇跡的に生を保っていると云われている。ケイさんと緋紗さんは、薬を飲む時間、生きているという確認を、歌のような韻で、言葉で発音しながら、非時計回りに舞台を巡るものだ。
二人のイメージが繰り広げる呪術とアニミズムの世界が、共有できるためには、まず舞踊技法の集積として見るべきでない。養生している身体、それを気遣うケイの気配りの世界であり、その行為は、劇場を離れ、イメージの岡で繰り広げられる。岡には、生きた風が語りかけ、二人は、座布団を岩や、草に見立てながら、無数の命の物語を語り続ける。この時の過ごしかたが、絶妙であった。
ミュージックの語源は、ギリシア神話の9人の女神の諸芸の総称であった。ヘシオドスの「神統記」は、神々の由来を書いたものだが、ムネーモシュネ(記憶の女神)の9人の娘達、すなわちムーサ達が、ヘリコン山で歌舞するところから始まる。ムーサ達の脚のリズムが、我々人類を始めとして、生きとし生きる生命をもたらすというのである。ケイと緋紗さんたちは、ティアラ江東をヘリコン山としたのだった。
筆者は、踊りならどんな種類の踊りも好きである。だがある線まで行って急激に醒めてしまうことがある。作者の祈願、モノやコトに対する驚き、あるいは、慈しみの目が感じられない場合がそれだ。感情を控えたポストモダンも、作者の生に触れない限り、受け入れられないし、狂気の感情表現も外界への慈しみが欠けると、醒めてしまう。
呪術とアニミズムをもう一度発見しよう。