楽しさいっぱい 上田遥の劇的舞踊集団Kyuが第3回公演
「灰かぶり姫~僕らのシンデレラ物語~」を熱演
4月16日(土)13時30分、7時 蛎殻町 at日本橋劇場
東北地方を襲った災害で、多くの舞台やイベントが中止やキャンセルに追い込まれている昨今、その中を 2008年に誕生した“おじさんダンサー”(朝日新聞)こと劇的舞踊集団kyuは、予定の第3回公演「灰かぶり姫」を、楽しさいっぱいエネルギッシュに演じ終えた。まずはメデタシ、メデタシである。
このユニークなダンス・グループは、戦後のベビー・ブーマー期のおわり、昭和30年代の始めに生まれた舞踊家上田遥が、同じく同年配の膳亀利次郎、佐藤一哉らと語り合って、40代から50才代の男性ダンサーをレギュラーの核として発足させた集団だ。それもバレエ系、モダンダンス、日本舞踊、フラメンコ畑と、 9 名(劇団名の Kyu はここから来た由)のメンバーはそれぞれダンス界の多彩なジャンルを出自とする個性派ぞろいで、はじめから押しの強いチームカラーを念頭に、それも幅広い客層を念頭にスタートを切った。
自余の6名は古賀豊、清水フミヒト、高谷大一、堀内充、箆津弘順、西川箕乃助の面々。そこへ一点ハイライトとして、毎回明眸の女性ダンサーをゲストに招聘、それを巡ってストーリーが展開するというのが、これまでの大体の仕組みのようだ。そして今回のお話は、おなじみ「シンデレラ」こと「灰かぶり姫」。もっとも第 1 回の「白雪姫」以来、中味の味付けやストーリーは、すべてこれ異才上田遥が、過去の童話・バレエ・音楽にまたがるネタを適当に取捨選択、これらを自らのオリジナルな味付けで料理する、一種の名作パロディというべきか。あるいはむしろボードビル風なミュージカルといった方があたっているかもしれない、たのしい一夜のダンス・バラエティである。
さて今回の筋書きというのはこうだ。ある朝天上にあっていつものように目を覚ました神サマ(高谷大一)は、偶然地上の一角に境遇はめぐまれないが、目のパッチリした心根のやさしい孤児の身の娘(橘るみ)を見つける。孤独で貧乏なその日常に、なんとか夢と希望の境遇を与えてやることはできないか!そこで万能の神は愛の使い手である手下のキューピー(中村友里子‐ナレーターとしての役割も兼ねて熱演)を下界へ送り込み、その知恵と策略を存分に発揮させた上、最後にはめでたくショコラ家の王子(堀内充)との縁結びを実現させるといった筋書きの内容である。
もちろんそこへ行き着くまでには、さまざまな紆余曲折が用意されている。つかの間の有頂天に終わるニセ王子(清水フミヒト)の出現や、気位の高いショコラ家の夫人(佐藤一哉)の独善、またいつもは主のスカートの塵払いとみせて、実は同家の従業員をたくみに支配している召使(古賀豊)、あるいはローヤル・バレエのアシュトン版以来、この物語には欠かすことのできないキャラクターであるイジワル姉妹(箆津弘順・膳亀利次郎)、そして同時に童話や舞台でもおなじみの、おおぜいのネズミたちを使っての狂言回しなど、要は原作から衆智のシチュエーションだけを拝借して、あとは集団 Kyu の面々の個性を思いっきり煽りたて活用することで成立する、才気あふれる今日的ダンス・ドラマだ。
実際のところ途中20分間の休憩(これをアナウンスは出演者の疲れを癒すためとことわった。おそらく日本の公演では初めて聞くそのおかしさ!)を置いて、前後2時間に達するこの奔放な“劇的舞踊”は、意表をつく愉快なシーンの積み重ねで、カーテン・コールの最後まで少しもお客を飽きさせない。それは今回ウラ方に徹した総指揮の上田遥を始め、中軸の9人のパフォーマーが、すべてダンス界のベテランで固められていることと、決して無関係ではないと思われる。
この国のダンス界ではここ10年、だれもが〔コンテンポラリー・ダンス〕という言葉を安易に口にして、やたら中途半端な作品を舞台に乗せてきた。そこでは主体である筈の身体表現はどこかへ吹っ飛んで、歌ありセリフあり、またアニメの投入や言葉の羅列などは結構なのだが、肝心のダンスの存在はさっぱり影が薄い。それをまたやたら前衛藝術の最先端を駆使していると自負して演じているらしいのだが、見せつけられているほうは一向に理解が届かず、ひねったつもりの中味や制作意図を理解しようとするだけで、すっかり草臥れてしまったりする始末だ。
その点この集団は見せるプロの精神に徹している。「50歳、限界じゃない!中年だからこそ可能な、味のある表現を実践しよう」(プレス)というその意欲と信念には、場数を踏んだプレイヤーとしての責任と実力にしっかり支えられている。なるほどここには新規のテクニックや手法を誇示する若手ゼネレーションの気負った前衛は見当たらないだろう。その表現は極めてわかりやすく誰に対してもオープンだ。だがそこへ老練のしたたかな演技が加わり、巧みに用意された台本プロットの味わいと相俟って、ソロやデュオ、群舞などダンス本来のたのしさを、たっぷり観客席へと運んでくれるのだ。
もちろん今回の「灰かぶり姫」が、その点でこれ以上ない完璧な作品だと言っているわけではない。現代との切り込みや接点が、いますこし掘り下げられていれば、なお望ましい現代舞踊としての優れた作品になっていた可能性は充分のこされている。しかしその前に言いたいのは、いまこの国の現代舞踊界に、本来あるべき幅広い観客層を取り込んだ、誰もが理解し楽しめるダンス作品が、いかにも不足しているという現実だ。ほとんどシロウトまるだしの身体が、ただ舞台に出ているだけの舌足らずの迷作に出くわすにつれ、なまじすべてが許される似非〔コンテンポラリー・ダンス〕のせいで、この国のダンス藝術がますます矮小化され、次第に社会性との接点を失っていくことを、筆者は少なからず危惧している一人だ。