第33回 藝術舞踊展「Modern & Ballet 2011」気力充実の力作4本:
神奈川県舞踊協会主催による米沢麻佑子 吉原嘉依子 山県順子 中島素子の作品集
10月16日 神奈川県民ホール
神奈川県所属の洋舞家たちが技を競い、1年おきに舞台に乗せる『Modern & Ballet』も、いつしか33回目を迎えた。のっけから瑣末の憶測で申し訳ないが、この独自の、そして当協会のパテントのようにも見えるタイトルは、いったい何時どのようにして決まったのか。今もし日本の芸術舞踊界に針を垂れ、ランダムに洋舞作品を吊り上げるとすれば、おそらくはモダン・ダンスかダンス・クラシックの作品にだいたい決まっている。そこで協会のレギュラー公演の枠として、いささか便宜的にこの二つを並べてタイトルに持ってきたというのが、少々ひねくれているが私の解釈だ。
しかしこれはつい10年ぐらい前までは、ローカル団体なら極めて自然な、いわば平叙態のサブタイトルではなかったか。両ジャンルがそれぞれ独立している列島カバーの全国組織ならいざ知らず、わずか1世紀前に輸入され、そこへバレエが今次大戦後やっと正規にお目見えしたこの国の洋舞史を振り返れば、不思議でもなんでもない呼称。のっけから妙な議論を持ち出して恐縮だが、先ずははじめにこのことをちょっと頭の片隅にキープしておいた上で、さて今回の4作品を、順を追って検討してみよう。
まず1本目は米沢麻佑子の「呼吸と鼓動」。モダン系、それもいわゆるコンテンポラリ-と呼んで一向差し支えのない至極アプデートな作品である。内容もタイトルが示唆するように、きわめて抽象的で概念性の強いもの。自らもその1員に加わり、大勢のダンサーたちを、巧みに離合集散させながら調理して行く振付者としての腕は、なかなかに冴えてきた。この1作で飛躍的に上昇した形跡をみる。もともと素質のあるソリストだったが、USでの在研を経て、その達者さは個々のダンスの域を超え、今回の仕上げのように、アブストラクトでいながら、全体のタッチに一種の肉感性さえ感じさせる小味な一面もある。今後ますますの成長が期待できそうだ。
2本目はガラリ趣向が変わって、ディヴェルティメント・バレエとしての「レ・パティヌール(スケートをする人たち)」。アシュトンが創始したとされ、その後ロンドンを中心に、かってフォンティーンなども踊ったことのある古い演目だが、中味はG・マイアベアーの音楽を用いて、ヴァリアントとしてバレエ・シアター、ジョフレー・バレエなど、他の舞踊団でも自由な演出で多用してる。その意味では今回のように、地元の幼ない踊り手たちを動員して数多くステージに乗せ、パトロンとしての親たちを巻き込む実利の面でも、ピタリ狙いは決まっている。趣味と実益を1枚の大皿にのせ、巧まず全体を料理したそのコックの名は、メディアでも活躍するバレエ振付家の吉原嘉依子。衣装や背景も明るく、古典バレエの親しみが無理なく前面に押し出され、ポイントポイントで律儀に拍手を返す地元神奈川の市民たちを、理屈抜きで楽しませていた。
休憩をおかず、つづいて登場する3本目は、再びトーンがモダンに戻って、山県順子の創作オリジナル「あとから生まれるひとびとに」。客電が落ち時間で持ち上がる緞帳が、床から数十センチあたりで一旦静止、その向こうにランダムに行き来する出演者の脚部を、しばらく見せる。よくある手法だが、これはこれで作品のスケールや質を、あらかじめ客にイン・プットする意味で、それなりの狙いがあるのだろう。やがて全開するとそこには男女取り混ぜた大勢の人々が行き交い、かれら市民の日々の営みが、シンボリックにダンスとして処理される。
バックのセットは簡潔でフラットな灰一色のデザイン。ただ下手の一角には、アクセントを兼ねて真っ赤な花のブッシュが植えられている。さらに目を凝らすと薄暗い奥の中央あたりに一人の女がいて、なにやら祈りを捧げているような様子。そのうち群集の中の男の数人がヘルメットをかぶって集結し、いつしかユニゾンで気勢を上げる。ミリタリズムの到来か。それにしても少々難解である。だがそのうち「戦争は過去の出来事ではない」というキャプションや、「あとから生まれるひとびとに」(ブレヒト)のタイトルから、これが人々の祈りと反戦のテーマを込めた創作であることが、少しずつ判ってくる。
実はこの作品はプログラム・シートに転載されている『曠野』(新藤涼子・作)と題した自由詩のイメージをダンスにしたもの。“芥子の花の乱れる群落を過ぎ、三日もかわらぬ地平線の太陽を背に、今は亡き父との出会いを求めて大陸をさまよう” というその詩と行間の意を、あらかじめ承知していない一元の客には、いきなり身体だけをぶつけられても、いささか面食らって理解に苦しむのでは。それがはっきり意識化されて心に刻み込まれるのは、やはりその詩をじっくり読み終えてからになる。
言うまでもなく、ダンス作品というのはダンスがすべてなのである。したがって今回の山県作品では、はじめからダンスの持つ象徴性を上手く掬い上げるか、あるいはいっそ言葉の援用を認める別の作戦もあった。言葉があって、身体が受け止め、そして再び言葉に帰っていく。それでもトータルに身体の優位性を主張する演出は十分にあり得るのだ。そんな工夫がいま一歩細部に欲しかった気もした。しかしこの創作からほとばしり出るはげしいエネルギーは、大きな主題とともに間違いなく観客に伝わったはず。モダンとしての真摯な力作だったことは確かである。