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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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ダンスワークス久々の快作 野坂・坂本の
「 Romances sans paroles 」 12月16-17日 神奈川県藝術劇場 KAAT

日下 四郎 2011年12月26日

野坂公夫・坂本信子のダンスワークスが、 2011 年の暮、 師走の横浜で久々の快作を放った。題して 「 Romances sans paroles ― 無言歌」。場所は今年の 1 月、パフォーミング・アーツ専用の施設として山下町に誕生したばかりの、神奈川県藝術劇場 KAAT のホールにおいてである。

もともとダンス作家としては、決して多弁とはいえないこのコンビ。しかし――と言おうかだからこそ、その作品にしばらくお目にかからないと、無性に劇場に足をのばして、その品格のあるすがすがしいダンスに接したい気分におそわれることがあるから不思議だ。実力と言うべきか。

その作風を一口に述べるなら、〔身体詩〕あるいは〔身体の浪漫派〕という説明がいちばんよく当たっているように私には思われる。詩人が言葉を通してうたいあげる“心のうた”を、彼は身体を空間いっぱいに繰り広げ、さまざまな形で展開してみせるのである。しかしそのタッチは、決してけばけばしく派手なものではなく、それでいて常にみずみずしく鮮烈だ。

今回の場合も、その中心軸はかわらない。舞台にはまず3ケ所の真っ赤な円形スポットが投影される。そしてそのうちのひとつが白色になって再生すると、そこには野坂と坂本の寄り添う二体の影が浮かび上がり、それがそのまま無音の短いドゥオとしてからみあう。作品の核であるロマンスを示すウルトラ像だ。燃える生命、純白の心、愛の誓い。それらを一連の視覚でシンボリックに凝縮してみせた見事な導入部である。

このあと初めて音楽が入り、サン=サーンスのオルガン曲に乗って左右からダンサーたちが列をなして流れ込む。詠うように躍動する群舞の風景。今は昔70年代の後半に、かの「Chamber Dance」シリーズでデビューした野坂公夫の作品は、いわば当初から音楽とは切っても切れない関係にあった。そして歳月とともにその中心へ、生来の透明な“詩心”が泉のように染みわたり、その結果今日の野坂式振り付けが出来上がったと言ってもいい。

繰り返すが、彼の振り付けのベースには、まず音楽がある。それも大抵はクラシカルで端正な。ただしそれは例えばフィリップ・グラスのような 現代派の曲を用いる場合でも同じだ。単なる雰囲気とかBGだけのために使うケースはめったにない。つねにバックには水々しいリズムがしっかりと流れている。そしてそのためかどうか、彼は振付のテクニックとして、ダンス・クラシックの技法を多用する。美しい古典曲にはどうしても様式美のパやポジションが似あうのだ。短いパーシャルな動きの中に、オヤこれはまるでベジャールだ、と思わせるような珠玉のフレーズを間々発見することもある。これが彼を数多い他のモダン・ダンスの作家と峻別させている最初の一点である。

しかしだからといって野坂は決して形式美のダンス作家ではない。見た目の典雅さの向こう、たおやかな振付の奥には常におのれへの問いかけ、意識された会話がある。それが生きる人間としての、現代と阿吽の呼吸で繋がる“詩”の部分であり、それがまた次には反転して、ダンサーたちの動きに繊細でたおやかなフリンジとしての装飾を与えている。この作家の振付に、モダン・ダンスの魅力を付与する最大のモチベーションだといえる。

かつて私はそんな野坂・坂本の宇宙、ダンスワークス独自の完成された身体表現を、あえて〔成熟したモダン・ダンス〕、あるいは〔モダン・ダンスの古典〕と呼んでみた。一般の誰もが見てよく理解できるダンス、しかもそれが決して軽薄で安易な、流行と喧騒の中へ観客を放り込み、一時的に日ごろの浮世を忘れさせてしまう態のエンターテインメントではなく、真のダンス好きのファンなら、たっぷりとダンス自体の楽しさ、身体表現の真価そのものを堪能させてくれる類の審美の舞台である。

そんな上り坂の頂上を目ざしつつ生み落していった野坂の代表的な作品が、過去「曲舞」(1990 東京藝術劇場)、「闇の中の祝祭」(1991 虎ノ門ホール)、「Lauda」(1996 アートスフィア)、「さまよい人のフーガ」(1998 世田谷パブリックシアター)、「森羅」(2001 新国立劇場 江口賞)、「CANTOS」(2003 横浜赤レンガ)、など一連の力作であった。いずれもダンスワークスのレパートリーとして、いまなお生き続ける逸品ぞろいの定番である。