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ニュース・コラム

舞踊評論家・日下四郎氏の連載コラム「ダンスレビュー」

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ケイタケイのムービングアース・オリエントスフィアがLIGHTシリーズ新旧2本を上演:Part36「風を追う者たち」、Part12「Stone Field」 2月17~19日 両国 シアターX

日下 四郎 2012年2月24日

「身体を音楽の上位に置くべし」と主張したのは、この国におけるモダン・ダンスの開祖石井漠であり、それは彼が大正時代から自らの創作に際しての基礎理念として、ほぼ生涯にわたり遍在した。このことを石井は山田耕筰を通して知ったリトミックの祖、ダルクローズの舞踊観から体得したのである。身体表現を美しい音楽のインタープリテーションだと観ずるバレエ藝術は論外として、モダン・ダンスでは上記した佐藤氏のノートを待つまでもなく、さまざまな形での咬み合いや副作用があり、結構その生かし方は難しい。

今回の公演のむしろ本命である新作「風を追う者たち」では、その点での意図はある意味ではその通りに生かされたと制作サイドは主張するかもしれないが、私には正直に言って逆にもの足りなかった。ところどころにごく目立たず挿入されていた音楽は、決してコレオグラファーの「見つめる地平」を、より明確にしていたとは言いがたい。とするならば反対に「コレオグラファーの思想が徹底していない」(同上ノート)せいだろうか。

そんなことはない。「Stone Field」でも見られるとおり、人体とモノを活かしておのれの宇宙をその場に構築する手法については、ケイタケイほど傑出した一流の才能の持ち主は容易には見当たらない。数人のダンサーを白い小さなスツールに座らせ、手を掲げた姿勢のままゆっくりと後ろ向きに移動させるシーンひとつを見ても、彼女の匂いとカラーは、すでに十分すぎるほど客席に伝わってくる。ただひとつこの作品で惜しいのは、1時間をマークするこの作品の中味の展開が、いささかスローで劇的起伏に乏しい点だろう。

いや別にストーリーを組み込んで欲しいなどといっているのではない。もしこの作品が最初から音楽を用いずに作ることを前提に振付にとりかかっていたら、あるいはどんな結果が可能性として待っていただろうか。「Stone Field」がそうであるように、人体とモノだけで組み立てる音楽的起伏を、いやおうなしに造型の計算として組み入れていたに違いない。それがお互いに振り付けと音楽の両方で、無意識にでもいささか相手からのヘルプを期待して、両すくみの平板にはまり込んでしまった疑いがある。

ダンスは「何の支えもなしに独立してあるべき」であり、「音楽はダンスを必要としない」と断言するなら、作曲側はもっとそれ自体のおもしろさを工夫して、起伏に富んだスコアを書き下ろすべきだったし、ダンスの方はダンスで、その仕上がりの先に音楽サイドから何らの付加的効果をも期待するべきではなかったと、つい演出に注文をつけたくなってしまった。しかし例えば具体的に、この1時間の作品のプロセスに、何かハイテンポなスケルツォの1章でも挿入されていれば、全体の印象はまた違って、さらに弾みと奥行きのついた作品に仕上ったかもしれない、とこれはもちろん一方的で勝手な私の放言である。(18日マテイネ所見)

日下四郎
日下四郎(Shiro Kusaka)
芸術文化論・ダンス批評・演出
 
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。