【ダンスの味わいを堅持する保守本流のよさ:第26回ザ・ネリマ現代舞踊展を観る】
東京という街はおそろしく広い。今更ながらの言い分だが、それが保有する人口
数や密度、また多機能性から言うと、面積の大小はともかく、ニューヨークやロ
ンドンと並ぶ世界一の大都会だと言って差し支えない。実際その中心部を占める
23区だけを問題にしても、その一つ一つが、ちょうどその数だけの小都市を隣接
させたような、個性の強い集団の領域だと言い換えても、決して誇張ではない。
そんなことから東京都には、他府県には見られない区単位の文化行事が、個別に
慣行として行われる。そしてこれはダンスの世界でも例外ではない。すなわち全
国組織である㈳現代舞踊協会が年次に組む選抜新人公演や全国フェスティバルと
は別に、その地区に在住するダンサーを中心として、独立して制作を手掛ける芸
術舞踊展を年次のプログラムとして持っている。たとえば江東区洋舞連盟が
〔ティアラこうとう〕を根城に繰り広げる洋舞シリーズ、杉並洋舞連盟が毎年発
表する舞台公演、新宿芸術家協会の手になる年次の企画発表、あるいはなかの洋
舞連盟の主催になるコンクール行事、その他その他。
そんななかでやはりここ四半世紀にわたって続けられてきた〔ザ・ネリマ舞踊
展〕も、決して見逃せない強い個性のひとつだ。制作の主導者は練馬の住人とし
て早くからその存在を示すベテラン石川須姝子・藤里照子のご両人。会の副称の
(こぶしの会)という名が示唆するように、がっちりスクラムを組んで堅実な創
作発表を続けてきた。そして見落とせないその特色は、あくまでも作品の基盤
が、名実ともにしっかりと現代舞踊の1点に絞れら固められている点にある。
現代舞踊――すなわち今では大方コンテンポラリー・ダンスとカタカナ横書きで呼
ばれることの多いこの舞踊界の一ジャンルは、一口に定義することがなかなか難
しい芸術ダンス部門である。それはひとつにはこの古くて新しい身体芸術が、近
年ますますその間口を広げ、自らの表現エリアを膨張させてしまったことにも起
因する。たとえば作品の完成にあたって、近頃は必要以上にビデオ映像や電子サ
ウンド、あるいは特殊照明、遠隔操作などの、いわゆるIT効果を多用するかと思
えば、あるときは一方で容赦なく言葉の挿入や日常風景の導入をゆるし、その結
果演劇との区別がつきかねるといった具合にである。ボーダーレスの乱用だ。
多種多方面へ向けてのトライはもちろん自由であり歓迎すべき姿勢だ。ただ問題
はその結果ダンス芸術の根本である身体の劣化というべきか、身体の相対的価値
がいちじるしく劣化してしまっているケースが少なからず見受けられる。ダンスに
とって不可欠の身体が、単にワンノブゼムの素材にすぎなくなって、本来の魅力
を自ら放棄しているということだ。
その点この練馬区在住のアーティストたちによる(こぶしの会)は、どこかが一
味違っている。ある意味では時流に乗ったそれらの実験やトレンドには関係な
く、当初から身体ひとつに的を絞り、あくまでもその組み立てや動きを通して作
品の主題に迫ろうという姿勢である。それが出展されたどの創作からも感じられ、
観終わったあとに実に爽やかで底深いある種の充足感を残した。真にモダンダン
ス好きのファンにとっては、こたえられない楽しさである。折角だからそこで今
回は全9本の作品について、それぞれから受けた納得のさわりのようなメモを以
下に並べてみようと思う。
まずトップランナーである池田素子の作品は「influence-影響」。テーマを支柱
に10名のダンサーに振りつけた群舞だが、いつもは小道具とおのれの身体を掛け
合わせたようなソロで、小さな空間のメカニズムにこだわるこの人が、失礼なが
ら正直これだけ群舞をこなす力量が示せるとは思わなかった。まずこれが最初の
サプライズ。続くは谷乃梨絵の「ゲルニカ」。ピカソの絵画に描かれた人物たち
の悲惨を、やはりピタリ振付に溶かし込んでの鮮やかさに感心する。対比的に流
したマーラーのアダージオもよく効果を高めた。続く三人目には、藤田三恵子の
「ざわめき…今」が来る。中空の水平バトンに貼り付けられた3枚の巨大な新聞
紙が、並んだ4名のダンサーとよく緊張感を生み出し、振りはややシンプルなが
ら、それだけ明確に主題を浮き立たせていて納得。
第2部の最初は小林和加枝の「深々と、奥入瀬樹木」である。時にバックのホリ
ゾントに流れる雲霧の映像を配し、無伴奏のチェロの調べに乗って、ひたすら男
女6名のダンサーの動きで、正面から幽玄な自然の描出に挑んだ。格調が高い。
続く三浦ゆかりの「よされ節」は、それまでの4作品とは異色で、スケルツォと
呼んでいい要素が加わる。3女+男のカルテットを挟んで、突如ハイテンポのカ
ラフルな諧謔シーンを現出さるなど、作者のファンタジーが自在に躍動した。そ
して2部の締めくくりには池内新子の「今、私がいる場所」が登場する。一脚の
椅子を介在させ、おのれの分身と思われる金井桃枝とのデュオで通した渋い作
品。今回に限って言えば、二世の池田素子と表現スタイルをそっくり交換したよ
うな可笑しさがあった、というのはいささか余計な感想か。
ここで再び10分の休憩があり3部に入る。1本目は藤里照子のモノローグ「―凍蝶
(いてちょう)―」。上手の天井から下手フロアへ向けて、大きな白布が流れる
ようにセットされ、その中で今にも凍てつきそうな思いに耐えながら、全身全霊
をかけて踊るひとつの生命体がある。いかにもこの人らしい真摯でひたむきな情
景だ。それが理屈抜きで観る人の心を捕える。つづくのは稲葉厚子の「心のふる
さと ねこのうたーねっこのうた」。この人の作風も、〔舞踏舎“踏りゃんせ”〕
を前面に押し出していたころに比べると、よほど作風が変わってきた。もちろん
いい意味にである。明るくおおらかに、そして笑いの味わいが見せる要になって
躍動している。
大喜利はいよいよ会の長老石川須姝子の出番である。ユニークな振付と出演によ
る「見捨てられた椅子」。この人も若い。米寿を数える境遇でいながら、洒脱で
ヒネリの利いたその作風は今もって少しも衰えを見せない。後半杖を持ち褐色の
長衣をまとって、飄々と上手から姿を現わすと、それだけで舞台に空気が一変す
る。この国の気難しい現代舞踊の中を、見事に生き続けた貴重な才と言わずして
なんだろう。
以上みての通り、〔ザ・ネリマ現代舞踊展〕には、いまなおどの作品にも現代舞
踊――モダンダンスのエキスのような根源の魅力が力強く息づいている。温故知
新、これこそ政界のタームではないが、『保守本流』の貴重な財産と名付けてい
いのでは。ダンスの味わいと真のあたらしさは、すべて大元の水源をたえず問い
ただすことから生まれる。そんなすがすがしさをかみしめながら、練馬区の文化
ホールを後にした。
(2月22日所見)
芸術文化論・ダンス批評・演出
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。