【新国立芸術監督D.ビントレーのバレエ作品から伝わってくる確かなアクチュ
アリティ】
この欄にUPした前回の拙稿は、新国立劇場のレギュラー企画の一つである
“Dance to the Future”の3月公演についてであった。その際に劇場サイドが制
作にあたって目指しているに違いない、技術レベルでのバレエ・クラシックとダ
ンス・モデルヌとの見事な融合とか、あるいはとりあげる主題や取材にみる、パ
フォーミング・アーツとしての今日の存在感が、回とともに確実に前面へ浮き彫
りになることを期待しつつ、あえて過去3回の上演記録にも触れながら、このシ
リーズに対する筆者なりの声援と期待を込めて書いた批評のつもりであった。
ところがである。そのあと1か月経って上演された今回の新国立劇場のバレエ作
品が、いわば一足おさきに、その要求に沿った実に手ごたえのあるアクチュアリ
ティを、しかと観る側に伝えてくれるその迫力には驚いた。芸術監督デヴィド・
ビントレーが直接手がけたバレエ〔ペンギン・カフェ2013〕の公演である。その
内わけは「シンフォニー・イン・C」、「E=mc2」、「ペンギン・カフェ」
の3本。
中で「E=mc2」は2009年に本国のイギリスで発表され、サウス・バンク・
ショー・アワード賞を受けたという、今回が日本初演の異色の短編だが、後の2
本は2010年に時の文化庁芸術祭主催公演として、同じ編成で上演されているもの
だ。そのため全体としては、一見いかにも新国立劇場のレパートリーからピック
アップした、いわば再演プログラムの印象が観る側にとってはないでもなかった。
しかし芸術は正に生き物。3年前にはじめてこの「ペンギン・カフェ」を観たと
き、筆者の感想としては、いかにも異才の舞踊家ビントレーらしく、人間風刺を
込めて巧みにカリカチュアライズされた、動物たちの夢物語といった印象が強く
残った。ところがこれが今回みると、まるで別作品と言ってもいいぐらいの、は
げしいメッセージが込められている。カラフルで人の心を楽しませるストーリー
や、リズミカルな空間演出の向こうに、地球社会への作者の視線が、ペーソスの
一線を乗り越え、するどい警告としてまっすぐにわれわれの側に迫ってきた。実
ははるかに奥が深い作品なのだ。
作品の構成はこうだ。第1景の舞台はカフェを経営する主人公ペンギン(井倉真
未)の日常で始まる。次々と訪れる人や動物に、温かい飲み物や食事を運び、せ
いいっぱいアンビアンスの増幅に毎日をささげている。しかもこの動物、実は地
球上で絶滅寸前の種族の一人なのだ。ここがまず第一のミソ。続く出番のユタの
オオツノヒツジ(米沢唯)は、ちょっと奇妙に着飾った舞踏会風の衣装で、おな
じく正装したタキシードの紳士たちとペアを組んで、大勢できらびやかな社交ダ
ンスを踊る。地球は一見生きる者にとって、文句なしのパラダイスのようであ
る。その前向きのエネルギーを象徴するかのように、次に舞台へ跳び込むのは、
テキサスのカンガルーネズミ(福田圭吾)。空間狭しとめまぐるしく走り回っ
て、得意の跳躍ダンスを見せびらかす。
こうしてこの作品はこの後も〔豚鼻スカンクにつくノミ〕だの、〔ケプヤマシマ
ウマ〕、あるいは〔ブラジルのウーリーモンキー〕など、一見奇妙にして愛すべ
き、そしていまは希少価値の珍しい生物たちが現れ、それぞれの無邪気で風変わ
りな自分たちのエピソードを披露していく。しかしよく見ると、それらは決して
ユーモアたっぷりに描写された、動物たちの単なる生活リポートではない。実は
そのうらに地球上の生き物すべてが落ち込もうとしてる生存の危機状況を、その
まま反証的に暗喩した、実におそろしい風景なのである。現代のイソップ物語と
名付けてもいいぐらいの、きびしい人間への警告でありパフォーマンスなのだ。
そのことは挿話の中に、あえて人間親子3人だけを登場させた、奇妙で息苦しい
第6景〔熱帯雨林の家族〕が挿入されている一事をとっても納得できるだろう。
危機はついそこまでやってきているのだ。
こうしてクロージングの景はまことにシンボリックである。ホリゾントにはノア
の方舟ならぬ脱出用の巨船が浮かび、そのなかには運命共同体のように、これま
での挿話に出てきた動物たちが、人間ともどもひしめき合いながら、降りしきる
宇宙塵のただ中を衝いて地球から飛び去ろうとしている。何処へ?「もっと安全
に生き延びられる別の衛星へ!」。彼らを見送るのは、あのペンギンカフェの主
人公。「死ねません。がんばります。あなたたちを安全に送り出すのが私の仕事
ですから」。手をふりながら別れを告げ、あえて自らは地上に残る絶滅種ペンギ
ンの、しぼりだすような叫び声が聞こえてくるようだ。まことにそれは悲痛で感
動的な幕切れとなった。
初演の時と比べてキャスティングはほとんど同じだ。演出にも大きな改訂があっ
た跡はない。それなのに作品から受ける印象が、こうもはげしく違うのはなぜ
か。明らかにそれはあの事件3.11の余震だ。二つの公演の間には、くしくも東日
本を襲うあの大地震が起こった。そしてそれに続く大津波と原爆基の破壊と。い
や列島だけの問題とは限らない。これは地球上の人類すべてに問われている生存
の問題であり試練である。芸術が不死の生きものであるゆえんは、常にそれを取
り巻く社会との不可分な相互共喚にある。いまビントレーが1988年に創作した
「ペンギン・カフェ」は、いま放射能に汚染された2013年の列島を背景に、いま
一度芸術の不思議なメッセージを伝えながら、見事に生き返ったのだと言うこと
ができるだろう。
このことはさらにまた、もう一つ今回が日本初演の「E=mc2」からもはっき
り読み取ることが出来た。こちらはアインシュタインの有名なエネルギー方程式
に触発され、それを〔エネルギー(E)〕〔マッス(m)〕〔光速の二乗
(c2)〕の3つのパートで視覚化した抽象作品だが、それを仕上げるのに用いた
楽章は、オーストラリアの現代音楽家マシュー・ハインドンにあえて委嘱した。
この組み合わせを知っただけで、すでに振付の前衛と抽象性は、容易に想像がつ
くというもの。実際新国立劇場のバレエ団の実力は、ダンス・クラシックを基と
しながら、独自の個性を持つビントレーカラーの動きを立派にこなして、ほとん
ど文句なしに合格点を献上することが出来る。
だがここで筆者が特記したいのは、テクニック上の評価如何だけではない。実は
この3部構成の途中に出てくる、〔マン八ッタン計画〕と名付けられたインター
ルードの挿入だ。この部分の出演者は、長袖の白い着物に赤い扇子を配した女性
ダンサー(厚木三杏)ひとりだが、そのクラシック調のスローな動きと対照的
に、バックで激しく点滅するドット・ランプの流れに、サウンドの巨大なパワー
が覆いかぶさる。投射された真っ赤な方形のデコールは、ここ日本列島に飛び散
る悲劇の放射能を示唆するもの。そこには一身に現代を受け留めるクリエータと
して、どうしても不問に付すことが出来なかったアンソロポロジスト・ビント
レーのまなざしがギラギラと光っている。
トリプルビルの編成では、「20世紀初頭から現代までを俯瞰する」ことが強く望
まれると、かつてこの新任監督はその抱負を語った(プログラムノート2010)。
今回のプログラム3本もまたその実践の一端といえる。ただその際に感心するの
は、それが決してテクニックの開示だけの謂いではなく、過去から現在へ至る流
れの先に、いつも人類と地球をみつめるアーティストの心眼ともいうべき英知
が、現代ものの底辺から強く浮かび上がってくるという一事だ。笑いやユーモア
の衣にくるまれながら、そのアクチュアリティの確かさは、その時点ですでにダ
ンスの未来形を、すばやくおのれの懐に取り込んでいるとはいえないだろうか。
Ballet to the Futureと名付けてみたくなった所以だ。
(4月29日所見)
芸術文化論・ダンス批評・演出
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。