第40回現代舞踊展にみる4種の創作タイプ..:7月13/14日 メルパルクホール
1974年(昭和49)の夏に、今はなき虎ノ門ホールで第1回のスタートを切った東
京新聞主催の現代舞踊展。CDAJ(現代舞踊協会)の協力をバックに、春の全国舞
踊コンクールと並ぶ斯界の代表行事となった新聞社の年次公演だが、今年は数え
て40回目。場所もいつしか芝はメルパルクホールに移っての2日間、計27作品が
さまざまな題材や主張を揃えて並んだ。
それにしても40年といえば、オギャーとこの世に生を受けた赤ん坊が、今では中
年のひげ面・熟女に変身する年数である。もしその人が人生でダンサーの道を選
んだとしたら、すでに新人の域を超え、この世界の先頭を切る働き盛りの、つよ
い個性として第一戦の舞台をリードしていてもおかしくない。すなわちこの公
演、以前には見られなかった、新旧入り混じった多彩なプログラムを提供してい
て、その点が第一に面白かった。
そこで今回はただ順を追った作品批評ではなく、顔ぶれと手法、題材などの点
で、全体を4種のカテゴリーに再分配して、典型的ないくつかの作品に触れてみ
たいと思う。したがって上演順、いずれの日の舞台かも飛び飛びで、すべての作
品に言及されないだろう点は、はじめにおことわりしておく。
さてその4つのカテゴリーだが、2日間を通して観た上で、とりあえず以下のよ
うにグループ化してみた。まず①は、今日的主題をストレートに舞踊にぶつけ
る、若手を中心とした創作。次に②として、積年にわたって体得したおのれの舞
踊技術を作品に込めて勝負する層。③は視覚美を第一義に置いている現代舞踊の
バレエ派。④には“老い”を中心テーマに持ってきたベテランによる創作群。以上
である。
まず①のグループに分類できる作品としては、両日ともなぜかプログラムの前半
に集中して多くみられた。これはこの種の参加型の公演では、制作者側にどうし
てもヒエラルキーの意識が働いて、キャリア順に出番を決める慣習があるから
で、その結果真の意味で現代舞踊らしい今日的作品は、両日ともむしろ前半に集
中するという、やや片寄った現象が生まれている。しかしまあプログラムの順番
などは2義的なもので、とやかく言うまい。
この範疇に入る作品としては、初日における佐久間尚美・坂木真司の創作「安ら
ぎのない安定がゆれる」や、島田明美・島田美穂の「Les nouveau temps」、ま
た翌日の冴子作品「天使の渇きが、その嘘に聞く」、菊地尚子705の「.motion」
などをあげることが出来る。いずれも新鋭作家群の手ごたえある舞台で、それら
に通底する特色は、日々直面する問題をとらえながら、それにおのれの肉体を介
在させ、新しい表現手段に訴えようと模索する前向きの姿勢である。
例えば佐久間・坂木作品では、生きることの不安をシーソー風にセットした板に
仮託し、その上に乗ったダンサーたちに、揺れ動くバランスを与えながら振付け
る。オブジェに実存の不安を暗喩させながら、同時に身体の動きにダンスの魅力
を失わなかった力量を買いたい。またこのところの冴子作品には、この1作も含
めて、生きることへのひたむきな問いかけと姿勢が、群舞処理の巧みさを縫って
ストレートに迫ってくる勢いを覚える。現代舞踊のレゾンデートルを喚起させる
貴重な原点だ。
その他この①に分類してもおかしくないと思われる作品に、キャリア組による2本
の創作がある。山名たみえの「異郷の島」と、本間祥公・山口華子親子による
「checkpoint syndrome(検問所症候群)」。前者はこの作者が本来的にもつ詩
的思考が、久々に復活した感じが新鮮だったし、後者は異国社会での体験が、生
の不安として癒着した心理をテーマとした着想が秀逸。ただし視覚からいま一歩
内奥へ迫る有機性の点で、まだ工夫の余地がありそうだ。
②のグループを占めるのは、大部分がベテラン陣によるもの。さすがどの1作を
とっても、それぞれがこれまでに修得した特技とカラーを最大限に生かして、持
ち時間の10分を目いっぱいに活用している。中で野坂公夫・坂本信子の「希望の
扉」が、身体の動きと感情の質を同一ディメンジョンにおいた手法で、“希望”と
いう概念を、抽象的な空間に描き上げた力量に脱帽。その他石黒節子「不完全だ
から生きる」とか、牧野京子「瞳のない目」、真船さち子「連動の舟」などの創
作にも、それぞれコンセプチュアルな課題を、目いっぱい舞台空間に解き放って
なお余裕のある、職人的美感覚のたくましさに打たれた。
これに比べると、非バレエのテクニックだけで、ダンサーの動きを中軸に視覚美
をねらうグループ③は、作品がよほど素直で分かりやすい。市川紅美の「空色の
向こうへ」にみる藤色の群舞、田中いづみ「そして、第二楽章」の律儀なまでの
整合性。このカテゴリーの仕上げは、平岡一路・岡村えり子の「サウダーデ~
雨~」であろう。傘をさした3人のシルエットにはじまり、流れるように奏でる
女たち6人による雨の抒情詩は、流れに沿ってきれいに心が洗われる。
おもしろかったのは“老”を扱った④のグループである。振付者自身がすでにその
年齢に達した人生の先輩たちだから、これは各自の“今”を問題にしている点、か
えって現代舞踊的とも形容できるだろう。渡辺元「淵を覗く」、河野潤「3つの
点」、藤里照子・森嘉子・山田奈々子「現在(いま)を生きる」など、いずれも
このカテゴリーに嵌めてよい。ただし作者がそれをどう観じて料理しているかが
やはりいちばんのみどころ。中で井上恵美子の「私はたしかに存在した」が、そ
の点でいささかユニークな視線と組み立てで注目された。
ヴァイオリンの音に乗ってはつらつと踊る若い女たちの群舞。その背景をホリゾ
ントに沿って女である今の“私”が通り過ぎる。若い女の一人が突然その存在に気
づき、腕をのばして指差す。あれは誰?この1瞬に現在と過去がピタリ1枚の絵
のように静止する。いま指差したあの若い子は誰?そうだ、あれは私だ。あの時
あのように、“私”はたしかに存在した。この指し示す指のベクトルが、〔若〕か
ら〔老〕へとリヴァーサルに措定されているのも、なかなかに意味深長だ。
冒頭に記したように、現代舞踊展というこのシリーズも、初期の内容に比べると
すっかり顔ぶれが変わり多彩となった。ターニングポイントとなったのは、2003
年に3日間にわたって行われた第30回の記念公演である。この時主催者の東京新
聞は、「これまでにご出品いただいた30作家に、新たに12作家を加えて、我が国
における現代舞踊化の代表者ほぼ全員を網羅し、これが現代舞踊だ―という魅力
あふれる舞台」になったと、当時のプログラムにも自負している。
しかしこのシリーズが、そっくりこの国における現代舞踊の全貌を伝えているか
どうかには、多少とも疑問の余地がある。文化企画とはいえひとつの営利事業で
あり、現代舞踊協会という体制とのバックアップを前提に組まれるコンテンツだ
からだ。それでもさしあたりこのフィールドの主だった実力者を一堂に集め、そ
れをまとめて鑑賞できる定期公演としては、ほかに類似の舞台は見当たらない。
40年にわたる芸術シリーズの継続は偉業であり、新聞社ならではの得難い成果だ
と言えるだろう。大小の困難を乗り越え、常に“いま”(現代)との接点を失うこ
となく、いつまでもダンスファンを喜ばせてくれる、楽しみな年次の行事であっ
てほしいと思う。
(13日・14日所見)
芸術文化論・ダンス批評・演出
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。