5月の公演より
【スターダンサーズ・バレエ 1幕版でみる名作選「白鳥の湖」「くるみわり人形」】
関心のマトはただひとつ:スタダン独専の才人鈴木稔が、「白鳥湖」と「くるみ」という、いわば古典バレエのシンボルともいえる2本の多幕ものを、いかに1幕に短縮・再構築して、しかも今日の観客にしっかり楽しんでもらうことが出
来るのか。そして観終わっての答えは? 率直に言ってイエスでありノーでもあった。
そもそもこのバレエ団が組む夏の古典バレエは、当初から観客として子供ぐるみの親子層を意識しており、先の「ドラゴンクエスト」はそのユニークな成功例だが、同じように他の古典素材を、それなりの再構成と演出で新しく制作したいという冒険心は、ある意味痛いぐらいに伝わってくる。ゴールデンウイークの最中、このこどもの日近くに組まれたこの企画も、あきらかにその一つだ。
さて先行は全1幕45分の「白鳥」。厳密に言うと1幕というのはウソで、3幕構成の凝縮版と言った方が正しい。まあ中をとって1幕3景としておこうか。まずは袖幕に立った小山久美総監督の、物語の状況説明から舞台は始まる。そして序曲が終わり、幕が開くといきなり現れるのは、白鳥たちの踊る湖畔のシーンである。のっけからずばり〔バレエ・ブラン〕のエッセンスを、ストレートに観客に味わってもらおうという意図か。
それにしては白鳥の数が主役込みで12羽とはちょっと少ない気もする。しかしあとでもう1本〔くるみ割り〕をこなすには、キャスティングとしてはこれが目いっぱいか。それでも4羽の白鳥など、人気のナンバーはたくみに組み込まれており、少人数によるフォーメーションは、かえって新鮮味を感じさせる振付もあった。
この景ではジークフリート(吉瀬智弘)の登場とオデット(林ゆりえ)との出会い。愛のドゥオ。そしてロートバルト(大野大輔)の介在で一同が引き揚げ、あとに残された王子が地上に落ちた1枚の羽根を手に、翌日のフィアンセ選びのセレモニーを思いあまって思案にくれるなど、プロットとしては古典どおりの筋書きである。
おなじことはこの後に続く景にも言える。一度中幕が下り、つなぎに小山久美のナレーションがあって通例の王宮広間となる。ここで式典の彩であるディヴェルメントは、人物の衣装だけで全面カット。代わってほどなく黒鳥オディールが乱入、王子が一度は狂喜、あとでだまされたことを知って地団太を踏む流れは、窓に映る白鳥オデットの孤影ともども、ダイジェストとしては極めて親切でわかりやすかった。
さらに最終景は、いわばこの名作古典の眼目でもある〔コールドバレエ〕の美しさを、ふたたび湖畔をバックに新しく展開したのち、やがてオデットを求めてやってきた王子が、愛の力でロートバルトを打ち勝ち、ついには永遠の旅路に出る。その2人の後ろ姿のクローズアップで、この45分に圧縮した1幕もの、鈴木バージョン〔白鳥湖〕は終わるのだ。
もう1本の新版「くるみ割り」も、やはり同じ姿勢・同じ精神で、わかりやすく造り上げられている。今回の案内役は実役を兼ねた人形遣い、魔術師ドロッセルマイヤー(東秀昭)だ。ずばりクリスマス・イヴの景に始まり、くるみ割り人形を手にした少女クララ(窪田希菜)がベッドに入ってから見る夢の話である。ただこちらは紗幕に描いたクリスマス・ツリーを介して、一般の居間から宮廷風のお伽に国へと場面移動するので、あえて1幕モノと称しても、ウソとは言えないかもしれない。
さてその中味だが、やはり時間と枠の制約は誰にとっても厳しい条件の筈で、あちこちに異才鈴木の考え抜いた工夫の跡が窺える。ふつう一般には大挙して暴れまわるネズミの軍団も、ここではボスの1匹だけがお相手。しかし子供たちへ贈る夢と色彩がねらいの〔くるみ割り人形〕だ。こちらでは花のワルツを頂点に、スペイン、アラビア、中国から、チャルダッシュ、マズルカまで、民族ダンスのディヴェルメントは、落ちこぼれなく準備され、時にクララもいっしょに加わって踊る。
こうして川崎市のしんゆり芸術祭の1本として、スタダンがあえてゴールデンウイークに放った2本の名作バレエスペシャル版は、無事その目的を果たした。ただしこれを一口に総括せよとならば、これは鈴木稔の個性と才能に賭けた冒険企画では決してない。いわば手引きのための易しい〔エコバレエ〕である。しかし文章の場合でもそうだが、長いものより同じ内容を短く詰めて書く方が、よほど大変であり並ならぬ才能を必要とすることもまた確かである。(5月3日マティネ所見)
【ケイタケイ・ムービングアース+黒テント「西遊記のアジア1」京成中山遠壽院】
ニューヨーク時代の20年にわたる「LIGHTシリーズ」の活動を含め、ケイタケイの舞踊作品の底辺を貫く太い一本の線は、自然との交わり――それも人間の生みの母としての大地との深いつながりにある。それは90年の初め、彼女が日本へ帰国してから結成したムーヴィングアース・オリエントスフィアの活動として受け継がれ、近年の「風を追う者たち」(2012年Part36)や「前ぶれ」(2013年Part38)などの創作、あるいはその前後から始まった〔ケイタケイLIGHT津々浦々シリーズ〕によって、アウトドアや列島縦断の果敢な試みの形で、そのこころざしは変わることなく引き継がれているといえよう。
それが今回から、演劇集団黒テントと四つに組んで挑戦する、地球規模の「西遊記のアジア」によって、さらなる新しい企画へ一歩を踏み出した。ムーヴィングアース主催のケイタケイ(構成・振付)と、黒テント所属の宗重宏之(台本・演出)が中心となり、「現代の舞台芸術が見失った未開の沃野に向」(ノート)って、名実ともの長征の旅へ出かけるのだという。こころざしや良し。おおいなる興味を持って出かけた。
旗揚げは、荒行の場としても知られる千葉県市川市中山にある遠壽院の境内。参道突き当りにある伽藍の前面が観覧席エリアで、この日は都合50名ほどの入場者が駆け付けた。時間(17時開演)になると、石畳の左右に20名ほどの、白衣に袈裟懸けスタイルの出演者が出そろう。一方、伽藍の前へは寺の住職(戸田日農)が進み出て、読経を交えた天地開闢の盤古のはなし。するとそれを受けた石畳沿いのダンサーたちが、左右対峙と交錯のユニゾンで、ゆっくりと天地創造の動きをなぞり始める。天空に吐き上げる長い吐息、痙攣を思わす肩と肩の震え。そしてそこへ12支たちの誕生が繋がる。このあたりの動きは、ふつう野外で踊る場合、どうしても効果が広い空間に逸散しがちだが、ケイの振付はバックに流れる連打のサウンドともども、充分な重みと迫力を感じさせてさすが。
続いて西遊記の主人公である三蔵法師(ラズ・ブレザー)が登場し、お供である孫悟空、沙悟浄、猪八戒ともども、受難や菩薩とのかかわりなど、おなじみのストーリーが展開する。3匹の従者を演じるのは黒テントの役者たちで、ダンスは水玉を持った海の群舞や、老いた亀の逸話など、主筋を盛り立てる役割だが、目いっぱいに空間を駆け回る姿は、むしろ身体を駆使した視覚の方が主役で、金魚に扮しべろべろと舌を出し入れするケイの独舞もすこぶるユニークで面白かった。
ここで一旦15分の休憩となり、一部観客席の移動が行われた後に、次の第2部へと移る。その後半の中味は主として法師一行に焦点を当てた受難の記である。したがって科白を用いた演劇的要素が前面に出てきて、木の精に扮し鉦を叩くダンスの一群は、やや存在感をうすめた感じはまぬがれない。それでも美人局(つつもたせ)のエピソードや、ついには英語を用いた禅問答まで組み入れるなど、なかなかの工面が施されていて、けっこう最後まで楽しめた。
前後2時間を日中から夕焼けを経て、夜の照明の中で閉じたダンスと演劇の野外ショー。さいわい天気も良く、背景としてのその自然の変化だけでもなかなかにドラマティックだったといえる。グループはこのあと2週間後には、この作品をたずさえて、フィリッピン・ルソン島山中での巡回公演を予定していると聞く。東洋発の素材と人間で世界をを駆け巡ろうとする「西遊記のアジア2」の大いなる野望に期待したい。(11日所見)
おなじみ架空のABペアが、遠くこの県外のショーにまで足を運んでいるとは知 らなかった。しかもその会話の中味が先月に引き続き、またしてもパフォーマン ス論議だったとは…。以下その座席から漏れてきた2人の会話から:-
A 「パフォーミング・アーツって、たしか太平洋戦争以後にアメリカから入ってきた輸入語よね」
B 「そう。すべての舞台芸術ってとこかしら。ニューヨークにはそれ専門のミュージアムもあるしね」
A 「プレーイング・アーツだとちょっと違うのね。なんだかサーカスとかマジック・ショーのような…」
A 「この言葉にはどこか奔放に動く身体の匂いがしない?」
B 「するする。だからあたし、真っ先にダンスをイメージしてしまうのよ。その次にお芝居かな」
A 「“ダンス+お芝居”/!/ じゃこの“西遊記のアジア”って、ある意味パフォーミング・アーツの典型的な舞台かもね。応援しなくっちゃ」
【居上紗笈SAOI作/演出による いのうえ紗笈SAKYUダンスソロ「乱れ髪」北とぴあ】
案内状に記された出演者本人の述懐:「どのようにしたら芸術が大衆の中に入っていって、なおかつ芸術として成立するか。その初めての試みをしてみました」という1文が私の関心を刺激し、久々にこのダンサーの発表会へ出向いた。場所は北区王子駅前に立つ北とぴあビル14Fのカナリアホール。いのうえ紗笈SAKYUによるオムニバス・ソロ「みだれ髪」3部作。SAKYUはダンサーとして用いるSAOIの別名で、本年1月から活動を開始、これが初のおめみえ公演だという。
パフォーマーであり、同時にオンパロス・ダンスプロジェクトの主宰者でもある居上紗笈は、日頃は群馬県の沼田市に住み、そこでワークショップやアートフェスを開催、地方文化の向上に貢献しながら、デビュー時以来ヨーロッパの舞台や国際ダンスコミュニケーションに参加、また身体とダンスを多角的に論じる不定期冊子「プレクサス」を、自らの手で編集・発行するという、まことに多才で個性の強いダンス・アーティストである。
そのダンサーとしての作風を一口で説明せよとなら、そもそもは日本女子体育大学に学び、はじめは江口隆哉ふうのモダンダンス表現を身に付けたが、その後哲学・美学者の及川広信から強い影響を受け、自ら〔ダンス・パッサージュ〕と称する独自の身体観とメソードを獲得した。1994年それを踏まえてパリで発表した「虫――欲望の機械 あるいは洗濯船上での花嫁の奪略者」は、現地においてアーティストたちから絶賛を浴びることになる。
さらに帰国してから90年代に出した作品、「ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レ」、「死のパッサージュ」、「億の記憶―雪が降るー」、「魚…精神のピストンあるいは三面鏡に映るチベットの花嫁」その他は、いずれも話題作ながら、マルセル・デュシャンやルネ・マグリトなどフランス・シュールレアリズムに依った色合いが濃く、それを日本の前衛アーティストを動員して器用にまとめ上げたと言う印象が目立った。
その傾向は2002年のアヴィニョン公演まで続くが、2004年に至って居上紗笈の〔オンパロス〕活動は、突如それまでの東京都下の清瀬村でのアトリエを閉じ、遠くその拠点を茨城県沼田市へと移した。そして現地では古い民家を取り壊して、直接自然と向き合った理想の空間を創りあげ、NPO法人アートプレゼンスの設立や、毎年1月17日に必ず開く世界アートバースデイの実践など、彼女ならではのユニークで着実なダンス活動を続けてきたのだ。
そして今回私としては久々にみる東京での舞台。何が変わったか。いちばん強い印象はその作品から、いつしかヨーロッパ的発想としての輸入色がすっかり影を潜めていることだった。着想動機としても、「美空ひばり、与謝野晶子“みだれ髪”から」とノートに記されている。そして第1章はベートーヴェンのピアノ・ソナタに乗って、白い衣装とハットの〔少女A〕が舞う、おなじみ即興ダンス・パッサージュ。
続く章〔恋文〕では、袴仕立ての和服に着替え、サウンドも琴、尺八、津軽三味線を用いて、爛熟した女の情念を、序、破、急のリズムで踊る。以上2作品の進行には、天空の月や街頭、ダンサーのスナップ、またの壁面には、一字一句を追うように「柔肌の熱き血潮に…」に始まる短歌がバックに投影されるなど、適宜舞台効果が工夫されている。
第3章〔エロスと悲劇〕は、3転してベースはアルゼンチンタンゴとなる。ただしここではパフォーマーと並んで、写真や映像も主役で、ヒグマ春夫のビデオ映像「身体モ夢ミル」のサワリも投影され、またラテン衣装の踊り手が、〔銀の仮面〕を被って、この創作仮面の紹介するというパートもある。
以上観終わっての感想は、トータルで1時間タップリ、さまざまな人間の5感を刺激して、いかに観る者を楽しませるか、そのサービス精神がヒシヒシと伝わってくる。以前の紗笈作品なら、立てかけた傘の陰から和服女の脚が伸びて、足先の下駄の落下が情事をにおわす見せ場などありえなかった。それでいてその振付や振付には、およそ客層への媚びといったものが見当たらない。
しかしそれら芸術的レベルの高い各パーツが集まって、重層的に高い感動へと昇華して終わるには、いまひとつ計算されたドラマツルギーといったものが不足していた後味が残る。中軸となるダンスが、ソロの領域を踏み出そうとしないからではあるまいか。ダンス・パッサージュのコンセプトが、複数の輪(共演者or映像の輻輳化)を広げて空間を満たし、この作家の「芸術が大衆の中に入っていって、なおかつ芸術として成立する」と願う一念発起の、さらなる前進と成熟を望みたい。(15日所見)
芸術文化論・ダンス批評・演出
本名:鵜飼宏明 京都市出身。
東京大学ドイツ文学科卒業後、東京放送(現TBS)へ入社、ラジオ・テレビのプロデューサーとして数々の番組を送り出す。1979報道制作部長職を経て退社、 故・三輝容子とダンス・シアター・キュービックを設立、13年間にわたりトータル・アッピール展の創作(台本・演出)にかかわる。90年代は淑徳短期大学、日本女子体育大学大学院にあって非常勤講師、主にドイツ表現主義芸術を論じた。現在はフリー・ランス。著書:「モダン・ダンス出航」「太陽と砂との対話」「竹久夢二」「現代舞踊がみえてくる」「東京大学学生演劇75年史」「ダンスの窓から」「ルドルフ・ラバン」(翻訳)など。他に、ビデオシリーズ「日本現代舞踊の流れ」(全6巻)の完成があり、その全テキスト・演出を担当した。