2月の公演より
まことに残念なことに日下四郎氏が筆を置いてしまったため、今月より当コラムを引き継ぐことになりました。よろしくお付き合いのほどお願いいたします。
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日本発祥の舞踏は、世界にも広く受け入れられたが、ひるがえって日本のコンテンポラリー・ダンスにも見過ごせない影響を与えている。
みっちり舞踏の修練を積んだ者がコンテンポラリー・ダンスのフィールドで活動するようになる例も少なくないが、それほど影響が明白でないところにも、舞踏由来ではないかと思われる美意識が見られることがある。それはたとえば、棒を飲んだようなぶっきらぼうな存在感や、手首や足首をわずかに巡らせ、あるいは指先をつまぐることによって示される繊細な表情である。
既に90年代には舞踏とコンテンポラリー・ダンスはある程度まで相互浸透的になっており、誰かがなにかを舞踏から継承したとかしないとか断ずることは難しいが、少なくともダンス・クラシックやモダンダンスの技法とは違ったものがそこに生まれてきたとは言えるだろう。
関かおりPUNCTUMUN
『マアモント』
2015年2月8~9日 のげシャーレ(9日昼所見)
PUNCTUMUNを率いる関かおりは、身体のゆるやかな動きにより舞台に繊細な美を描き出すことにかけては、今日の第一人者と言っていい。この『マアモント』は2010年初演で、2作目の長編作品。本作の短縮バージョンで2012年のトヨタコレオグラフィーアワード「次代を担う振付家賞」を受賞している。初演の会場は渋谷のEDGEという、倉庫を改装した無機的なスペースだったが、今回も地下室のような四角い小ホールの二辺に客席を設け、床に白いリノリウムを敷き、壁の二面に白い和紙のようなものを垂らして、消毒されたような空間を作っている。
関の作品ではあらゆることが「かすかに」起こる。入場してすぐ認められたのは、無響室にでも入ったかのような、耳を圧するばかりの隔絶した静寂だった。作品に音はほとんどなく、ときおりシャラララと鉦の音がしたりする。ダンサーは男女3人ずつ。男女とも眉毛をファンデーションで塗りつぶしている。一部すり切れたかのように地肌が透けて見えるクリーム色のボディスーツには、レースやフェイクファーの切れはしが貼り付けられている。
振付は虫や動物をヒントにしていると言う。なるほど、四つん這いに歩く人の背に乗る、立ちつくす人に木登りのようによじのぼるなど、動物を思わせる動きもある。夜中のジャングルのように、生き物の鳴き声のようなものが遠くに聞こえてきたりもする。だがなにしろ白一色の舞台に、最小限の衣装をまとったダンサーがいるだけである。動物の動きの描写ではなく、むしろ動物同士の触れ合いなら触れ合いを、極度に抽象してその本質だけを提示していると見える。
実際、作品の大半は、もっと具象性のない動き(あるいは静止)で占められている。のけぞったような姿勢で歩を進める、立ってわずかに震える、赤子のように四肢を浮かせた人を、仰向けになった人が上に伸ばした足の裏で空中に支える、といったあたりが特徴的。
動きは基本的に非常にゆっくりで広がりも限定されている。あるいは、「広がり」と同様に「狭まり」も活用されている、と言った方がいいかもしれない。なにか目的を果たすための動きと言うより、意図があらわになるところまで到達しない、一種の気配のようなものが多い。見る側は本能的に、そのわずかな動きが示唆するものを読み取ろうとして、かえって目を離せなくなる。
作中、二、三度ほど、背後から香りが漂ってくる(「香り演出協力」として、《香りのデザイン研究所》の吉武利文の名がクレジットされている)。最初はなにかをいぶしたような香り、後半ではもっと華やかな香りだ。そのひそやかな香りが、かすかな音、わずかな動きと一体となって、気配に満ちた、静謐で深遠な作品世界を現出する。
ノルウェーには暖炉で薪が燃えているようすを映すだけの12時間におよぶテレビ番組があり、高い人気を獲得しているそうだが、そこに催眠的な吸引力があるだろうことは容易に想像できる。関の作品を眺める心持ちも、おそらくはそれに近い。ただし火を眺める以上に細部に心が絡め取られるため、とうてい12時間も見ていることはできない。70分間にわたり深く没入し、その後はただ呆然とするばかりである。
鯨井謙太郒+城戸朱理(郒はヘンが良、ツクリが邑 Unicode 0x90D2)
『毒と劔』
2015年2月14~15日 神楽坂セッションハウス(15日昼所見)
こちらの方は舞踏との関係が一見して明瞭である。鯨井をはじめ、6人の出演者のうち4人がオイリュトミスト。いずれも舞踏家にしてオイリュトミストである笠井叡に師事している。オイリュトミーとは、言葉や音楽を体の動きに反映させる表現形態で、未見の方のために非常に単純化して言えば、クリオネのような形の薄物のドレスをまとって、歩きつつサワサワと舞うもの。
笠井はこのところ記紀神話の群唱に乗せて放埒に踊るパフォーマンスを継続的に展開している。この作品も、詩人の城戸によるテキスト、北原白秋の『建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)』、それに『古事記』を用いており、笠井の路線と近いところに立つものと考えられる。
作品は7つのシーンで構成され、天照大神の岩戸隠れのエピソードを描く。冒頭、明かりが入ると、裸体に黒いスーツを着た男がスポットの中に仁王立ちしている。これがスサノオ役の鯨井。目には赤い隈取りを軽く施しており、歌舞伎のようにフォルムで迫力を出しつつ、ゆるりと形を変えていく。
本作がおもしろいのは身体作法の異なるダンサーが混在している点。アマテラス役の大倉摩矢子も舞踏の踊り手だが、大森政秀が主宰する天狼星堂の出身で、同じ舞踏でもアナーキーな笠井の系統とは毛色が異なる。世間一般が持つ舞踏のイメージに近いのはむしろこちらで、白塗りして焦点の合わない目で立ちつくし、手先、指先、足先で微細な動きをつむぐ。もう一人、四戸由香は現代舞踊のダンサー。笠井叡の作品に出たことがある。アメノウズメの役だろうか。残り3人のオイリュトミストは、コロスのような不定の役割。
このように、二系統の舞踏、オイリュトミー、現代舞踊が自由奔放に入り混じりながら、天の岩戸伝説に沿って踊り狂い、最後にはスサノオを筆頭に全員が、ハラキリにも見える所作をして、紙吹雪が舞って幕となる。
天の岩戸神話には火山灰の影響による日照不足の比喩という解釈がある。噴火などの天災を逃れられない地勢と豊かな神話を併せ持つ日本という国の来し方と行く末を描く。作品のテーマは重いのだが、その重さは重さとして受け取りつつ、踊りは踊りとしてそのダイナミズムも楽しい。もう一度見たい作品の一つとなった。
(当初、団体名の誤表記がありましたので修正しました。)
舞踊批評
1994年より週刊オン★ステージ新聞などの紙誌に舞台評を執筆。大学では哲学を専攻した。