四人の振付家と振付の新時代
人はどのようにしてダンスを見るようになるのだろうか。子どもの頃から習っていたのでなければ、筆者もそうであったように、ダンス好きの知人に誘われるか、知人が出演する公演のチケットを引き受けるのがきっかけになることが多いのではないだろうか。
ただし、そのようにしてダンスに触れた人でも、進んで継続的にダンスを見るようになるとは限らない。最初の数回は、付き合いや、「なんとなく」といった理由で見てもくれようが、それだけならやがてダンス公演から足が遠のくこと必定。現代人は暇ではないし、楽しみなら他にいくらでもある。
幸運にして、その最初の数回のうちに決定的な体験をした人、払った金額がどうでもよくなるほど大きな心の満足を得た人が、ダンスの引力圏に引き込まれ、不満足な思いを何度かしても、容易にダンスを見限らない、忠実な観客になると考えられる。
■
3月13日に成城ホールで『成城ダンスフェスティバル2015』という現代舞踊分野の催しがあり、今年は10団体がそれぞれ15分ほどの作品を上演した。選りすぐられた団体だけあって、思わずひきつけられる作品がいくつもあった。新しい観客が見ても、そこそこ満足し、次の鑑賞機会くらいにはつながりそうに思われた。
だが決定的な体験をもたらすかもしれない作品は少なかった。もっとも、こういう言い方は不公平だ。少しでもそういう体験ができる方がまれなのであり、一つでもそういう作品があれば望外とするべきだ。
その一つが二見一幸の『meaningly』。二見は現代舞踊畑の出身だが、滞仏経験などを経てヒップホップをはじめ、さまざまなスタイルのダンスに通じるに至った。門下生を多数出演させる発表会形式の催しでは、エスニックなもの、ポップなものなど、まったくテイストの違う作品を並べる芸当も見せるが、最近は二見ならではの抽象的なムーブメントへの回帰を強めている。
そのムーブメントとは、多数の力線が同時並行的に生成消滅するようなものだ。へその向き、両肩と腕が作る空間の指向性、顔の向き、膝を開いた浮き脚の向かう方向がすべて異なっている。あくまでもイメージだが、体のあちこちからいろいろな方向への矢印が出て、時間的にも空間的にも絶えず伸び縮みしているようすを思い描いてほしい。身体全体の運動や不安定性は、その総和として一刹那ごとに成立し、たちまち砂の城のように崩壊して新たな姿に移り変わる。そのようなのが二見の動きだ。
これは技術的に大変難しく、きちんと踊りきれるのは二見自身とほんの一握りの踊り手に限られるのだが、その人たちの踊りは、それこそまばたきする時間ももったいないほどスリリングだ。今回の作品では特に、ゆるりとした時間がいきなり加速して個体が群体をなし、知らず時間の中に溶解する、その切なさがラフマニノフ『ピアノ協奏曲第二番』の美しい旋律と同調して、異様なほど感動的だった。
二見ほどの才能でも世間に広く知られるに至っていないのは理解に苦しむが、おそらくは、ムーブメント以外の作品要素が同等の高みに達しておらず、作品を全体として見たときの美的強度が足りないと思われているのだろう。いろいろな企図をもって芸術家の発展を手助けできるプロデューサーがいればいいと思う。
■
バレエの振付は世界との差が大きいと思われている分野で、一概にそれを否定もできない。国内で定評ある振付家の作品でも、海外から来るバレエを見慣れた観客からは微温的な評価しか得られないこともある。だが近年は、明らかに潮目が変わってきた。天才的な振付家は昔からいたが、最近目につくのは、仮に天才ではないとしても、たしかな実力を若くして身につけている振付家だ。3月から4月にかけては、そのような人の作品を見る機会が珍しく連続した。
東京都杉並区のスタジオで構成される杉並洋舞連盟の『創作舞踊&バレエ』(3月28、29日 セシオン杉並:29日所見)では三本の作品が上演されたが、その一つが鈴木竜の『ZOO』。鈴木はランバート・スクールに学んだ26歳で、正確にはバレエでなくコンテンポラリー・ダンスの振付家と言うべきだろう。
鈴木はいかにもランバート帰りらしく、個々の要素よりも、作品全体をうまく作るタイプ。この作品も、元Noismの宮河愛一郎をまず押し立てておき、ダンサーたちの台詞をスピーカーから流しつつ、17人の出入りをうまく構成して動きを受け渡す。2mほどのパイプを中国棒術のように操るかと思えば、継ぎ手をはめて立方体にして動物園の檻を連想させもする。20世紀に発展したさまざまなテクニックを臆せず活用した動きも、見ていて飽きない。
鈴木は既にいくつか短編を発表していて、幸運にも順調に注目を集めている。今後も、むろん目を離せない。
■
井上バレエ団の『アネックスシアター 次世代への架け橋vol.3』(4月4、5日 世田谷パブリックシアター:5日所見)では4本の振付作品が上演された。そのうちの一本、石井竜一の『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』は、メンデルスゾーンの曲を使った2013年作品の再演。
石井は谷桃子バレエ団の出身で、異能の振付家、佐多達枝の公演で長らく重用されている。多くのダンサーをとぼとぼ歩かせて、そこから個々の振りが展開するところなどに、佐多の影響がうかがえる。アースカラーの衣装を着て、膝を開いて腰を落とし上体を立てる、20世紀のスウェーデンの振付家、ビルギット・クルベリに見られるような振りがあるのも、佐多を通じての影響だろう。もっとも谷桃子バレエ団はクルベリ作品をレパートリーに持っているから、むしろその関係かもしれない。
だがいずれにしろ、重くどろどろした独特の世界に観客を引きずり込む佐多とは異なり、石井の作品はもっと軽やかで穏やかで抽象的だ。佐多の追随者ではなく、新たな個性と捉えるべきだ。むろんすべての作品が傑作というわけではないが、たしかなスキルを持つ振付家であることは間違いない。
■
同じ週に、『天満天神バレエ&ダンスフェスティバル』という催しもあった(4月4日 きゅりあん品川区立総合区民会館)。バレエを学ぶ生徒たちによるエキジビションに続き、《スペシャル・ガラ》としてパ・ド・ドゥを中心に11本の小品が上演された。目を惹くものも少なくなかったが、特に下村由理恵の振付作品を久しぶりに目にできたのは幸いだった。女性8人による『モーツァルティアーナ』である。
言うまでもなく下村は日本を代表するバレリーナの一人だが、振付作品もいくつか発表している。上に挙げた二人ほど若くはないが、作品数はそれほどでもないので、一緒に取り上げてもいいだろう。
下村の強みは、主にチャイコフスキーやビゼーの曲を使ったシンフォニック・バレエにある。物語バレエばかりが称揚される風潮のある日本のバレエ界で、ストーリーの助けを借りずに、内的な論理だけで作品を構成し、集団を動かす能力は貴重である。
だが今回の作品では、その地点にとどまらず、コミカルな味つけまでも施して見せた。クラシカルなベースを保ちつつ、細かいリズムで歩いたり、胸の横で手をぱたぱたさせたり、頭をぽよぽよ振ったりと、ちょっとした動きのセンスだけで微笑を呼ぶ。
モーツァルトを使ったコミカルな作品というとイリ・キリアンの『バース・デイ』が思い浮かぶが、分類としてはコンテンポラリー・ダンス。バレエの枠内でバレエの魅力を堅持して、なおかつ同じような小粋なくすぐりを実現できるとはまったく意想外だった。下村は、みずからがセンスとスキルを併せ持つ傑出した振付家であることを示した。
■
近年における日本人ダンサーの水準向上がめざましいのは周知のとおりだが、振付家もやがては同じようになっていくと思われる。
舞踊批評
1994年より週刊オン★ステージ新聞などの紙誌に舞台評を執筆。大学では哲学を専攻した。