ダンスと抽象性/具象性
今回はダンスの抽象度に関する話をしようと思う。
「抽象」とはどういうことか。たとえば物語性の強いクラシック・バレエに対して、ストーリーを持たないバランシン作品は「抽象バレエ」と呼ばれる。そうした用法が今回の話題と直接重なるわけではないが、まずはこの用法に、語の基本的な意味を確認しておこう。
「抽象」は「具象」の対義語だ。試みに読み下すならば、「具象」は《「象」(かたち)を「具」(そな)えた》、「抽象」とは《「象」(かたち)を「抽」(ひ)き去った》となる(注1)。
クラシック・バレエに描かれる物語は、もちろんフィクションではあるが、名前を持つお姫様、王子様などの個別具体的な人物が登場し、あるとき、あるところで起こった(という設定の)できごとが取り上げられる。一方、バランシン作品、とりわけシンフォニック・バレエと呼ばれる種類の作品では、作品の中心部分を踊るカップルと、その周囲で踊る群舞といった役割の分担はあっても(ない作品もある)、その役割以外の属性は与えられていない。どこの誰でもよく、時代の限定があるわけでもない。そこでは、個別具体性は必要ないものとして捨て去られている。
これは、描写における「抽象」および「具象」の概念だ。だが、今回考えたいのはそれではなく、ダンスそのものの「抽象」度、身体や動きにおける「抽象」についてだ。
バレエの技法に「アラベスク」というテクニックがある。片足で立ち、浮かせた足をまっすぐ後ろに伸ばした姿勢である。ただちにわかるように、身体や動きの視点から見れば、これは抽象的な把握だ。どのような身体を持つ誰がやってもアラベスクはアラベスク。出来不出来や個性の違いはあるにせよ、テクニックとしてはいずれも同じアラベスクである。一方、たとえば舞踏では、踊り手の違いは決定的な相違を生むと考えられている。身体性が異なれば、観客が受け取るものも異なるというのだ。同じ動きでも、大野一雄がやるのと川口隆夫がやるのとではまったく違ったものになる(注2)。舞踏では個別具体性を捨象することはできない。
身体や動きにおける「抽象」「具象」についてはざっとそのように理解しておけばいいが、注意が必要なのは、それらが互いとの関係で成り立つ、相対的な概念であるということだ。「歩く」という動作は十分に具体的な動きのように思われるが、歩き方も千差万別である。足をどのように出すか ―― まず膝を持ち上げるのか、膝の高さはあまり変えずに、床を摺るように足を出すのか。膝を上げるときに、どのタイミングで、どのように重心を移すのか。そのために、どの筋肉をどのように使うのか。抽象性を分解して具象性の方向に一歩を進めても、多くの場合は、さらなる具象化が可能である。
反対の方向にも同じことが言える。車の運転をしたことがない人には、1トン半もある鉄の塊を思いのままに動かすのは神業に見えるだろう。だが、最初は「まずクラッチを踏み込み、これこれの深さまでアクセルを踏んでから、ゆっくりクラッチを戻して…」などという複雑な操作だったものが、慣れれば「発進する」という一つの動作になる。抽象度が一つ上がるわけである。この方向にどんどん進めれば、たとえば飛行機の宙返りも、慣れた人には(たやすいとは言わないまでも)手がたく実施できるひとまとまりの作業と捉えられるようになる。
踊りにはこの両方向の契機がある。一般に「踊りが上達する」というのは抽象方向への変化である。当初、煩雑で細かい無数の身体操作の集積であったものが、長期の習練によって滑らかな一連の動きとなる。ときにはその延長上に、もはや動きでは表せないニュアンスが感得されもする。
その一方、抽象度が高いレベルから見ればありふれた一連の動作を、あえてその抽象度に至らないレベルから、具体性の集積として見ることもできる。見慣れたひとかたまりの動作を、日常の意識にのぼることがまずない細々とした具象性で捉え返し、こみ入った魔術的手続きに転じるわけである(注3)。「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方巽のテーゼはその事情をよく表している。
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とりとめなくこのようなことを考えたのは、いささか旧聞に属するが、以下の作品を見たからだ。
■川村美紀子『まぼろしの夜明け』
(2015年10月9~11日 シアタートラム 10日所見)
地下にある小劇場の、座席を収納したがらんどうの空間の中央に一辺が5~6mほどの正方形の台がある。高さは腰くらい。台の上には、6人のダンサーが死んだように倒れている。3人がうつぶせ、3人があおむけ。それぞれ、一辺が身長ほどもある正方形の白い薄布を2枚貼り合わせた中に入っている。観客は台を無秩序に囲んで立つ。
この作品の概要を述べるのは簡単だ。開始から終了まで、潮騒、ダンスミュージック、クラシック曲、ニュース音声、ノイズ、雑踏の騒音など、さまざまなサウンドが流されている。なかでも潮騒は、最初と中盤、終盤の3回にわたって流される。
そのうち、横たわっているダンサーの1人が手指をゆっくりくねらせる。1人が足を少し持ち上げる。そのように何人かの腕や脚がわずかに動いたり、動きが収まったりする。そのまま時間が推移し、開始から35分たった頃、ダンサーたちが半身を起こし、70分頃に全員立つ。立ったから激しく踊るかというとそんなことはなく、ただぼんやり立っただけである。その後暗転し、明かりが戻ると、一人を除いて全員、また台上に寝ている。おもむろに最後の一人も寝る。
なんのことはない、抽象性のレベルで見れば、ゆっくり起きて立ってまた寝る、ただそれだけである。特別なことはなにも起こらない。上演後には「ふざけるな」といった感想がそこかしこで聞かれたが(注4)、気持ちはよくわかる。だが筆者には、この作品がいろいろな意味でおもしろく感じられた。
あらゆる賞を総なめにしている川村美紀子が、いつもなにか突拍子もないことをするダンサーであることをあらかじめ知っており(注5)、今回はどのような素っ頓狂を見せてくれるか期待していたということもある。なにも起こらないことに観客がいらついている様子を見るのがおもしろかったということもある。だが作品自体の強度も、けっして閑却できないものであったと思う。
仮に無音だったらダンサーも客もとうてい耐えられないだろうが、ほぼ作品を通して、なんらかの音が聞こえている。川村作品では、エレクトロハウスと言うのか、いわゆるトランス系の曲がよく使われるが、本作でもそれが基調をなしている。もともと踊るための曲なのでビートがはっきりしている。つまり、そこになにが起ころうと、あるいはなにも起こらなかろうと、少なくとも時間は一定のペースで経過していることが、わかりすぎるほど明確に示されている。
舞踊は「時間芸術」と分類されることもあり、時間は舞踊に本質的な関わりを持つ。「時間とは運動の数である」というアリストテレスの定義を引くまでもなく、なんらかの個別認識できる(=数えられる)運動変化がないと時間は認識できない。しかるに本作では、ビートやその他のサウンドによって時間経過は明確に示されているので、逆に、まったく動きのない間も、そこに「変化度ゼロの運動」が存在するとつい考えたくなる。
そのような状況下では、手を触れられる近みでダンサーが指をくゆらし、足先を浮かす微細な動きが、むしろ微細であればあるほど、切実さをたたえた動き、「時間」を「無時間」から分かつはたらきそのものに見えてくる。わずかな動きだからといって無雑作にやっているとはとうてい思えない。滞在制作していた金沢でひと月前に行われた本作のプレビュー公演では最初から最後まで激しく踊り狂っていたそうだが、激しい動きも微細な動きも、身分上はなにも変わらず、いちいち同じ覚悟と同じ入念さを要求するわけである。
そして、そのように微細で切実な動きと対照することで、動きが一切ない時間も貴重なものに見えてくる。「静止」の持つ豊かさはなにも最近発見されたものではない。舞踏は言うまでもないが、1980年代以降フランスやベルギーを中心に盛んになったヌーヴェルダンス(「新しいダンス」という意味)においても、深く息を吐き出して完全に脱力した身体のやるせなさや焦燥、動きの残り火のような風情が有効に用いられていた。本作における静止も、緊張感あふれる動きからのゆるやかな解放であると同時に、次の動きをもたらすための油断のない準備として、見過ごせない重要性を感じさせるのである(注6)。
抽象的なレベルではなにも起こらない80分が、極度に具象的なレベルでは緊張のとぎれないスリリングな時間である ―― この作品はそのような事情の見事な一例であった(注7)。そして具象性の果てには、運動がゼロになった、動かざる物体としての身体があった。具象性は、結局は即物性に帰着するのであった。
■パク・サンミ『In My Room』
(2015年10月10~11日 セッションハウス 11日夕所見)
本作は、アジアのダンスに架け橋を作ろうというセッションハウスの企画、『ダンス・ブリッジ・インターナショナル』(パート1)で上演された短編。パクは韓国の若い女性ダンサーで、長い手足と小さく丸い頭を持っている点で康本雅子(注8)によく似ている。
からし色のリノリウムを中央に縦に敷き、パフォーマンスはその上で展開する。床に近いところで長い手足を使って昆虫のようにうごめく姿も康本を髣髴させるが、高い身体能力を基礎に置いて、その上に自身の世界を架構しようとする康本よりも、パクは身体そのものへの関心がもっと強いように思われる。
それをよく示すのが本作の衣装。手と足を出したハイネックの黒い総タイツなのだが、ゴム引きのような鈍い光沢を放ち、ウェットスーツのようにも見える。これを着た身体は、ラインもボリュームもすべて露わになる。それは衣服と言うよりも、身体と完全に一体化した第二の皮膚のようである。
具象性、即物性のレベルに下りて身体を提示しようとするとき、いつも問題になるのが衣装の縫い目だ。人体のフォルムの外部との境界である3次曲面に、縫い目という不要な線が走ると、そこで面のなめらかさがこごって立体把握に傷がつく。そのため背中の中央のような目立つ場所から縫い目を追放する例がたまにあるが、本作の衣装はさらに先を行っている。たとえば上体ごと腕を後ろに伸ばしたとき、腋に縫い目が見えないため、体から手首までが、関節を持たないゴム人形のような見慣れない一つながりの形態になる。人体を人体として見る抽象的な把握は一時保留され、人体の形をしたなんらかの「モノ」が、突然そこに現出するわけである。
身体を物体として観客の目にさらすのは、いかに優れた肢体を持っていても相当のことだ。われわれはふだん抽象的に「人間」や「身体」と口にするが、個別の身体はまったく抽象的なものでなく、個性もあれば性別もある。個性は裏返せば欠点だし、性別があるということは、抽象的身体でなく、動物としての諸器官を具えたオトコまたはオンナの身体として見られるということだ。
われわれは通常、美とか均整とかいう高次の概念で理論武装することによって見る者を一定の賞賛に誘導し、生々しい身体そのものから目をそらしてもらおうとする。だが、身体の物質性に定位しようとすると、そのような回避手段は一つも使えない。欠点や動物性ごと身体を見てもらうしかない。いや、そもそも「欠点」といい、「動物性」というのも、物体としての身体そのものに具わった性質でなく、価値判断や類型化を含む抽象的把握なのだから、それは目に入るとしてもあえて無視し、身体を単なるモノとして直視するように観客をいざなって、抽象的把握に慣れた目がふだん見逃し続けているフォルム、身体の生の姿を再発見してもらうのだと言うべきだろう(注9)。
ここには、文化=抽象=日常性と、身体=物質性=非日常の対立がある。身体を物体として提示するときに覚悟が必要なのは、せんじつめれば、日常の文化的良識をすべて振り捨てなければならないからだ。いつの時代も芸術には文化的俗物のなぐさみものという面があるため、そのような「良識的」存在からの非難や指弾(注10)をなにぶんかは予想しなければならない。だが逆に言えばそれは、そのような最前線の戦いに容易に飛び込める突破力がダンスにはあるのだということを示している。
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(注1)「読み下す」とは、大ざっぱには、その語における字と字の関係を、(古代)中国語の構文になぞらえた形で明らかにすること。だが、「抽象」という語はabstractの訳語として近代以降に日本で作られた語であり、漢語として存在した語彙ではなかったようなので、「正しい」読み下し方などというものはないというのがおそらく妥当だろう。
(注2)大野一雄(1906~2010)は舞踏の巨人。中堅のダンサー川口隆夫は、大野の舞踏を映像からコピーする試みをこのところ展開している。外形を真似ることが本質の再現ではないという(自明に見える)テーゼを前提として、そこに何が生じるか、踊りとは何なのかを問うている。
(注3)これは「異化」として知られる作用の一形態である。もともと「異化」は「再認」(日常の抽象的な把握)の拒否として考えられたので、一般的には具象方向を指向するが、抽象方向への「異化」が不可能なわけではないと思われる。撮影した映像の早回し再生にある効果を期待する映像作品は珍しくないし、以前にはニブロール(2000年代に活発に活動していたパフォーマンス集団)も、動作の一つ一つを認識できないほど(そして正確に実行できないほど)高速で遂行する技法を用いていた。
(注4)乗越たかおと木村覚というほぼ対極に位置するような評論家が、ほとんど同工の否定的な評を寄せているのは興味深い(それぞれ、『朝日新聞デジタル』2015年10月19日、『artscapeレビュー』2015年11月01日号)。
(注5)パフォーマンス内でコンビニ弁当を開け、口に入れて咀嚼しては吐き出す、突然会場から出て行き、山手通りまで走って往復する、など。横浜ダンスコレクションに対抗し、《川村ダンスコレクション》と称して桜木町の駅前や横浜赤レンガ倉庫の駐車場でゲリラ的にパフォーマンスを行った(そしていろんな人に怒られた)こともあった。
(注6)ここに「ディラックの海」を見てとるとすれば、3回にわたって繰り返される潮騒はそれを示唆する有益なヒントだったことになる。「ディラックの海」は素粒子物理学の仮説で、なにもない真空に見える空間には実は粒子と反粒子が詰まっており、高エネルギーによってもたらされる「ゆらぎ」により、絶えず対生成と対消滅を繰り返しているとする。その気で見ると、本作のコンセプトはこの考え方に近いように見えてくる。
(注7)6人の中には、半身を起こすまでの段階で、微細な動きすら一切していないダンサーもいたようだった。そのようなダンサーしか見えない位置にいた観客には、本当にただ寝ているだけの退屈な作品と見えたかもしれない。だが、客席がないこの公演において、どこで見るかは観客の自由であり、上演中の移動も、禁じられていないどころかむしろ奨励されていたのだから、体の一部をわずかに動かしているダンサーがいることにまったく気づかなかったとしたら、それは観客の怠慢と言わざるを得ない。
ことに本作は、作品やダンサーの側に作りつけのダンスがあるのでなく、受容する観客の側に初めてダンスが生じるタイプの作品なのだから(この区別についてはまた論じる機会もあろう)、そのように怠慢な観客には多少の非難が向けられてしかるべきと思われる。
(注8)主に2000年代に活躍したコンテンポラリー・ダンスのダンサー。自分のダンスを探して一時期をアフリカで過ごしたことがある。高い身体能力を活用しつつ、その一方で、しどけない風情の作品を作ったりもしていた。
(注9)人間の身体から文化的把握をはぎ取る指向性は、20世紀前半の、シュルレアリスム(超現実主義)という芸術思潮に顕著だった。そのため、特に初期の舞踏家たちはシュルレアリスムに強い親近感を抱いていた。
(注10)念のため確認しておくが、この段落の内容は注4で参照したこととは基本的に関係ない。
舞踊批評
1994年より週刊オン★ステージ新聞などの紙誌に舞台評を執筆。大学では哲学を専攻した。