藤井 修治 | ||
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2002年5月21日 | ||
先週のこの欄で、うらわまことさんがグリゴローヴィチ版の「白鳥の湖」について意見を述べておられました。ナールホド。さすが批評家、細部まで見たうえでのお考えに同感することが多いのですが、僕には僕の考えもありますので、今回は「白鳥の湖」について書いてみましょう。まずこの名作のこと。
そもそも「白鳥の湖」は1877年にモスクワのボリショイ劇場で初演されたのですが、成功したとはいえず、数回上演されたきりでオクラになってしまったのです。舞踊家や観客が当時では画期的ともいえるチャイコフスキーのバレエ音楽を理解できなかったのが不成功の一因ともいいます。今日では考えられないような話です。もうバレエ音楽なんて書くまいと決心もした作曲者なのですが、もともとバレエが大好きだったので、ペテルブルグのマリインスキー劇場の支配人と大振付家プティパの誘いに乗って、最晩年になって「眠れる森の美女」と「くるみ割り人形」を作曲しました。しかしチャイコフスキーは「くるみ割り人形」初演の翌年、1893年に急逝してしまいます。「眠り」「くるみ」の音楽が練達した手法で作曲されているのに対し、「白鳥の湖」の音楽は壮年期の創作意欲満々、交響的なスケールも大きく、旋律の美しさも彼の天才ぶりの証據ともいわれますが、急いだのか手抜きの部分も多く、それが後になり、カットされたり入れかえられているもとにもなっているのだと僕は心ひそかに考えているのです。気が弱いチャイコフスキーは「白鳥の湖」の不成功の原因は自分の音楽がよくなかったからだと思っていたという説があるのは、こんなところにもあるのかも知れません。 さて、チャイコフスキーの没後、このロシア最大の作曲家を追悼する催しが行われることになります。プティパはモスクワからうずもれていた「白鳥の湖」のスコアと取り寄せて検討してこの音楽の非凡さに感じ入り、その第2幕を高弟のレフ・イワーノフに振り付けさせます。イワーノフはすばらしい音楽的才能を持っていて、叙情的表現に優れていたので、最高の振付を見せました。この成功がもとで、プティパは自分では第1、第3幕、イワーノフに第2、第4幕をまかせたとのことです。これは1895年、ペテルブルグのマリインスキー劇場で上演されて大成功を収めました。これがプティパ=イワーノフ版といわれ、今日での「白鳥の湖」の世界的人気のもとになっていて、世界中のほとんどの「白鳥の湖」はこの版をもとにしています。 プティパ=イワーノフ版はチャイコフスキーの原曲の順序を大幅に入れかえています。だから原曲の綿密な調性の変化や起伏のつけかたが作曲者の意図からは外れたのですが、19世紀末に完成した古典バレエの構成や形式にはぴったりとしたものになっていて、このおかげで「白鳥の湖」が世界中に広まることになったともいえます。もっとも作曲者が生きていてこれを見たら頭にくるでしょうけど・・・。 日本で「白鳥の湖」の全幕が初演されたのは終戦直後の昭和21年、(1946)のことです。上海のロシア・バレエ団で活躍して帰国したばかりの小牧正英氏の演出・振付により急ごしらえの東京バレエ団の第1回公演です。焦土と化した東京で上演された舞台は当時の人々には夢の世界のように見え、バレエ・ブームを起こしました。現在から見ればお粗末な舞台だといわれますが、僕は写 真でしか見ていません。しかしその後もバレエといえば「白鳥の湖」ということになり、僕も数えきれないほどの内外の「白鳥の湖」を見つづけたのです。 さて僕は働きざかりの年代をNHKのディレクターとして頑張りました。その間、何回か「白鳥の湖」を収録・放送しています。初めて「白鳥の湖」を撮ったのは、たしか昭和40年ごろでしたが、谷桃子バレエ団の舞台でした。音楽番組制作の合間を縫って都立大学の谷桃子バレエ団に通 って振付・演出を憶えたものです。これは谷桃子さんをはじめ谷桃子バレエ団が総力を結集して作りあげた舞台で、プティパ=イワーノフ版を尊重してボリショイ・バレエの舞台に近いものでした。 配役はもうオディールを踊らなくなっていた谷桃子さんのオデット、そしてのちにチャイコフスキー記念東京バレエ団に移籍した桜井勢以子さんのオディールでした。王子は現在は小林紀子さんの御主人になっている小林功さん、ロットバルトは、のちに東京シティ・バレエ団の設立者の一人になる長身の故、有馬五郎氏、ウォルフガングは、これも早くに故人となった関口長世氏が参加していました。この版は少しずつ改訂されながらも今日までずっと上演され続けていて、日本での数多くの「白鳥の湖」の中でも人気の高いものです。 印象に残っている舞台として昭和42年(1967)のキーロフ・バレエの2回目の来日の時の舞台があります。東京文化会館での舞台を収録しました。西側に亡命する前のマカロワのオデット、オディールの2役は若々しく抒情的な表現がステキー。王子はヴィクロフ、ロットバルトが現在名教師として知られるG・セリュツキーでした。K・セルゲーエフの振付はプティパ=イワーノフを尊重しながらも、抑制と洗練を加え、典雅を極めたものでした。装置は淡彩 の墨絵のようなモノクロームの世界で、衣裳も第3幕のチャルダーシュとマズルカの男性のケープの裏の赤と紫以外は白やグレイだけで、とにかく格調の高いものでした。 カラーテレビの初期のことで照明が明るくないと肌色が出ません。通しげいこの時、セルゲーエフ自身が東京文化会館の裏側の中継車に来てくれて、モニターを見ながら照明を明るくするように指示してくれました。おかげで第2、第4幕もすごく明るくなってしまい、当時お元気だった故、東勇作氏が昼間の湖みたいだと文句をいっておられました。しかしこの「白鳥の湖」の放送で、「白鳥の湖」がカラフルでスポーティなものだけでなく、多種あることを実感させてくれました。この版は現在までつづいているだけでなく、新国立劇場もこの版を採用しているのですが、美術は物凄く豪華絢爛なものになっています。それはそれでけっこうだとも思います。 そんなことでバレエの中のバレエ「白鳥の湖」には、これが正しいといった演出・振付・美術というものはなく、世界各地での振付家が、各自の人生観、舞踊観、美意識によって大なり小なりの主張を見せ、またそれが観客の興味をそそることにもつながるわけです。 現在のところ、世界中の大半の「白鳥の湖」はプティパ=イワーノフ版に準拠していますが、時代がたつに従ってこの版に反旗をひるがえすものが現れてくるのは歴史的必然でしょう。 数回にわたる来日公演でおなじみの国立モスクワ音楽劇場バレエ団の「白鳥の湖」は、1953年にブルメイステルが作曲者チャイコフスキーの意図を汲んで、作曲当初の曲順を尊重して再構成したもので、ロシア演劇の大物スタニスラフスキーとダンチェンコの演劇理論をバレエに適用し、演劇的な首尾一貫を図っています。曲順も当初第1幕のために作られた第3幕のグラン・パ・ド・ドゥのアダージュの音楽を第1幕に戻して、道化のすすめで王子が一人の女官と踊る場面 の音楽にしているなどの工夫が見られます。しかしこの版でも不可侵といわれる第2幕のイワーノフによる完成度の高い構成・振付は原典の順序に戻してはいません。この版もテレビでとりあげましたのでごらんになったかたも多いと思いますが、どうお感じになりましたか。 終戦から57年になります。戦後しばらくの間はバレエといえば「白鳥の湖」だけしか見ない人も多かったのです。しかし「白鳥の湖」のおかげでバレエ・ファンがふえたのも事実です。NHKも時には「白鳥の湖」を放送することで公共放送としての面 目をたてていたような部分もあります。「NHKってハクチョーコ好きネー」などと気取ったオバさんに皮肉もいわれましたが、この名作を何回も放送したことで、テレビで初めて「白鳥の湖」を見てバレエファンになったかたいるかも知れませんし、すでにバレエファンのかたもバレエをより深く知り、楽しんでいただくようなったとも思えます。そして少なからぬ 「白鳥の湖」の放送を担当した僕も、書物を精読すると同様に、次第にバレエというものを自分のものとすることができたのです。僕は21世紀に入って番組作りはやめましたが、今後も多種多様な「白鳥の湖」を見つづけて楽しい余生を送りたいと思っています。 アッそうだ。最近、初来日した韓国国立バレエ団が上演したグリゴローヴィチ版だ。今回はもう書く余裕がありません。次回にとりあげることにしましょう。 |
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