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幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
 
Vol.54

古典の演出とドラマツルギー  

 
   ー韓国国立、グリゴローヴィチ版 『白鳥の湖』に思う」       
 
2002年5月13日
 

 4月下旬の韓国国立バレエ団の来日公演については、この前に藤井修治さんも書いていましたが、私も取り上げてみたいと思います。というのは別 の視点からだからです。
  まず率直な感想。多少偉そうに聞こえるかも知れませんが『なかなかやるじゃない』でした。とくにダンサー個人個人は素晴らしい技術、そしてスタイルをもっています。基本もしっかりしていてさすが国立、ということでしょうか。ただ、作品全体、プロダクションとしては、その密度、凝集性といった面 では、まだわが国の新国立劇場バレエ団に一日の長があるのかなと思いました。
 バレエ団としては新国立の方がずっと若いのですが、それでも舞台の成熟度が高いのは、いささか独断ですが、日韓のバレエの伝統の差のような気がします。
 いずれにしても、同じ東洋人、お隣りの国でこれだけのバレエ団が活躍しているのはとても嬉しいことです。韓国の経済事情も良くなくて文化面 への支出も厳しいものがあるようですが、ぜひ頑張ってもらいたいものです。これはわが国も同じ、韓国や中国にもドンドン出かけていって欲しいです。
 しかし、今日のテーマはこのバレエの日韓関係ではありません。この公演、とくに『白鳥の湖』を見ていて感じた[バレエにおけるドラマツルギー]ということです。実はそんなにえらそうなことではない、バレエにおけるドラマ作法、もっと具体的にいうと、バレエ作品における物語的要素をどのように舞台化しているかということです。別 の言い方をすると、作品をドラマとしてどう認識し、どの様な方法で表現しているか、です。
 というのは、韓国国立バレエ団の『白鳥の湖』のユーリ・グリゴローヴィチ氏の演出・振付にこのような点での疑問が多少あったからです。
 早速具体的に取り上げてみましょう。これは作品全体にわたってありますが、とくにこの作品の特徴である第1幕第1場(一般 に第1幕といわれる景)にそれが目立ちます。
 グリゴローヴィチ氏の作品解釈は、王子に焦点をあてて、彼の成長の物語とするということです(プログラムにおけるS氏の解説による)。それは当然の解釈です。わたしも作品解説ではそうしています。つまり第1幕は、モラトリアム(責任ある立場になる前の猶予期間)にあり、まだ自由に遊んでいたい王子に、母親(王妃)がもうそろそろ身を固めなさいと申し渡す。王子はそうしたくないが母親の言葉に逆らえない。いささか気落ちする彼を元気づけようと友人や家庭教師、道化、村人たちが踊りを見せたり、踊りに誘ったりする。それで王子は一時は憂さを忘れるが、皆が去って1人になると改めてもの思いにふける。その時白鳥が飛ぶのを見て狩リに出かけることにする、のです。たしかにS氏のいうように王子はマザコンのきらいもあります。少なくとも、母親に頭が上りません。
 ところが実際の舞台はどうでしょうか。王子が最初から出てきたり、パ・ド・トロアまで踊るのは、そして場が城の大広間なのもよしとしましょう(しかし、こうなると村人は簡単に入れず、みな貴族ということになりますが、そうすると多少疑問も生まれます)。しかし、母親(王妃)は登場して王子に首飾りを与えますが、結婚しなさいというようなせりふ(動きでの)はどうしても見えません。王子もそこで困惑するとか沈むという感じもなく、したがって回りがなんとか元気づけようという雰囲気も見られません。ただ王子を中心に踊るだけです。王妃というと、その後は舞台センターの奥の平場(高座でなく)に置かれた椅子にポツンと1人で座っているのです。皆はその前で(王妃に尻を向けて)踊っています。(王妃の場所は2幕1場でも同じですが自分のお城なのに)王子は踊りおわると母親を無視して袖に引っ込み、踊るときだけ舞台に現れます。
 たしかに王子はよく踊ります。ほとんどの踊りの場で中心になって高い技術を見せます。しかし、どうみてもテーマとなる王子の性格や心の動き、悲劇のきっかけとなる母親の強い望みは受け取ることができませんでした。
 これらは重箱の隅をつつくあら捜しではありません。まさに王子を主役とするという解釈のもっとも肝心のところです。
 さすがに王子も1人になると寂しくなります。しかし、その前に皆が去っていく時には王子を気に掛けるような素振りはほとんど見えません。
 そこにロットバルトが忽然と現れ、王子を湖畔に導きます(これも実際は導くというよりその場に湖を出現させるという感じです)。と、そこに数羽の白鳥が見えます。そして1羽が残ります。それがオデットなのです。王子の人生に運命的な影響を与える女性(ファム・ファタール=S 氏)の登場にしては地味で、観客も拍手のタイミングがつかめません。もっと印象的、運命的な登場の方法を工夫すべきではないでしょうか。さらにそれに対する王子の反応も、あまり将来の悲劇を予感させるようなものではありませんでした(これは王子の演技力の問題かもしれませんが)。
 こういったこともドラマ作法としては重要なことだと思います。
 そのあともいろいろと不満もありますが、2幕1場(一般には3幕)に移ります。ここでは2つの点を指摘しておきます。まず花嫁を選ぶ場。これは王子が花嫁候補たちと踊りながら気にいった相手を選ぶもの。ここでは当然にそれぞれの相手を敬意をもって平等に扱わなければなりません。たとえ心はオデットのところにいっていても。なぜなら相手も地位 の高い女性たちであり、公式の場であるわけですから丁重に。ところが王子はそんなことはおかまいなく適当に相手と踊ります。たくさん踊ってもらう女性もいればほとんど触れてもらえない候補者もいるのです。まさかわざと王子は王室のルールを無視する性格の持ち主なのだということを描こうとしているわけではないでしょう。また特定の女性と多く踊ったら彼女が気にいったのかと誤解をうけるかも知れません。もちろん綺麗なワルツですから踊りをきちんと見せたいという振付者の気持ちも分かります。しかし作法を心得た作者なら、その踊りのドラマにおける意味をきちんと押さえた上で振付すべきです。もう一つはグラン・パ・ド・ドゥのコーダです。オディールは完全に王子をわがものにしたという歓喜の気持ちを32回のフェッテで示し、ドラマをそして舞台を盛り上げます。王子も騙されているとは知らずオデット(実はオディール)との愛を確かめたとして歓喜の気持ちを表現します。この場合もっとも相応しいのは16回のグラン・ピルエットです。(パの正確な名称は省略)。これによりドラマだけでなく、舞台も客席も最高潮に達するのです。ところが王子はトウルが入りますがジュテ・アントルラッセをします。たしかに高度のパではありますが、はっきりいって舞台は盛り下がり、観客の拍手も消えてしまいます。この点は新国立のセルゲィエフ版についても書きました。
 まだいろいろいいたいことはありますが、つまりはロシア(旧ソ連)の古典の演出振付に共通 なのですが、ドラマの整合性よりもまず踊りを見せる、という姿勢が如実に現れたものと考えたほうが良いのではないでしょうか。しかし、私は例えばピーター・ライト氏の『ジゼル』のように、いかに伏線をはり、説得力のある方法をもってドラマを的確に伝えるかを工夫すべきだと思います。この意味でグリゴローヴィチ氏の『白鳥の湖』はまったく評価することができませんでした。  

 
ところがその後、一週間もたたないうちに溜飲を下げるような見事な『白鳥の湖』を見たのです。それは久保幸子バレエ研究所の発表会においてでした。久保さんは谷桃子バレエ団出身、自分のスタジオをもちながらNBA(日本バレエアカデミー)バレエ団のバレエミストレスをつとめています。もちろん、発表会ですからダンサーのレベルも韓国国立に比べればそう高いとはいえません。しかし、オデットの村上摩佐子さん、オディールの児玉 麗奈さんはなかなかのダンサーですし、王子は李波さんで、この面でも見応えがありました。とくに久保さんの演出は、オーソドックスといえばそれまでですが、1幕のドラマの進め方は先に私が記したとおりの意味をきちんと伝えるために、個々の役柄の性格、関係をきめ細かに設定してマイムで的確に意味を表現していました。2幕(湖の場)でもオデットは自分の正体、白鳥にされたいきさつ、湖の由来などをきちんと王子に語ります。「きちんと」とは、せりふでいえば、棒読みでなく、感情をこめてという意味です。また3幕の花嫁選びのワルツでも、平等に候補を扱いながら心ここにないという王子の心理をきちんと描いていましたし、グラン・パ・ド・ドゥでもフェッテとグランピルエットをしっかり組み合わせていました。
 たしかに創作バレエでは海外のほうが優れた作品が多いとは思います。しかし、古典の演出については、これ以外にも「ジゼル」、「ドン・キホーテ」など、ドラマ演出面 で、なまじっかな外来のバレエ団よりすっときめこまかに工夫しているケースがたくさんあります。
 この辺りの繊細さが日本バレエの特徴なのかもしれません。




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