D×D

舞台撮影・映像制作を手がける株式会社ビデオが運営するダンス専門サイト

 

ニュース・コラム

幕あいラウンジ バックナンバー

うらわまこと
 
Vol.64

踊りにも意味をもたせてほしい

 
ボリショイの「眠れる森の美女」を見て
 
2002年10月17日
 

 この9月にはABT(アメリカン・バレエ・シアター)、ロシア国立ボリショイ・バレエ団、そしてNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)・、・、・がほとんど同じ時期に来日しました。さらに同じ時期に新国立劇場バレエ団もローラン・プチを迎えて「こうもり」を初演しています。つまりアメリカ、ロシア、そしてバレエではありませんがヨーロッパ、そして日本を代表する舞踊団の饗宴ということになります。再三述べていますがNDTのとく40歳以上のダンサーによって編成されている・のユニークさは特筆すべきですし、ABTの世界中から集まった多国籍のきらぼしのようなダンサーたちも印象に残ります。またABTのリハールの「メリー・ウイドウ」、新国立のシュトラウスの「こうもり」という代表的なオペレッタのバレエ化の比較も大変に興味がありましたし、作品のせいもあるでしょうが新国立がむしろ見応えがあったのもうれしいです。
 それはそれとして、ここでは3年振り来日のボリショイ・バレエの「眠れる森の美女」をとりあげたいと思います。これを見た目的の一つはこのバレエ団のレベルと性格を確認することです。たしかに旧ソ連の崩壊前後しばらくは団としてのレベルもダンサー個人の意識もさびしいものがありました。しかし、その後はかっての栄光をとりもどし、再び世界のトップレベルの座を占めるようになっています。
 ただし、ここでとりあげるのは、ユーリー・グリゴローヴィチによる改訂版(1973年)の演出についてです。グリゴローヴィチの演出・振付についてはすでにこのページで韓国国立の「白鳥の湖」に関してとりあげ、ドラマとしての整合性、深みという点で疑問と不満があるということを述べ、藤井修治さんの反論、擁護論をいただいています。
 そこで、本場のボリショイの舞台でもう一度確認したいと思ったのです。そして結論をいいますと、「白鳥の湖」で述べたのとまったく同じことをこの「眠れる森の美女」でも感じたのです。それは2つの点からです。1つは、踊りの持つ意味づけの不明確さ、もっとはっきり言えば無関心さ、そしてもう1つはマイムのあいまいさ、分かり難さです。
 まず第一の点では例として3つを上げたいと思います。まずプロローグの妖精たちの踊り。このプロローグは王女オーロラ誕生の祝宴の場です。リラの精に率いられる妖精たちは、優しさ、無邪気、元気といった女の赤ちゃんに必要な資質をオーロラ姫に贈るために踊るのです。しかし、精たちの意識にはオーロラ姫もその両親であるフロレスタン王夫妻も全く入っていません。舞台、すなわち祝宴の踊りの場への出入りに際しても、オーロラや国王夫婦は全く無視されています。彼女らの意識にあるのは観客だけのようです。次は第2幕狩りの場のデジレ王子登場のシーンです。この場では彼はなにか悩みをかかえており、狩りの仲間にも入らず1人物思いにふけるのです。そしてそこにリラの精が現れ、オーロラの幻を呼び出すことになるわけです。ところが最初に舞台に現れるとき、彼はグランジュテではつらつと登場、元気いっぱい見事なテクニックをみせ、客席を沸かせるのです。どうしても悩める王子には見えません(ただしその後からは悩み始めるのですが)。もう1つ。この場の後半、オーロラの幻が現れ王子はリラに導かれて夢うつつに踊ります。そこで通 常3幕の結婚式でリラが踊る曲でオーロラがソロを踊ります。それはいいのですが、その時なんと王子はその場にいないのです。ここでわざわざソロを加えるのは、王子をさらに魅惑するためでなければ意味がありません。肝心の王子がいないのになんのためにオーロラは踊っているのでしょうか。
 つまり、ここの妖精、王子、オーロラの幻影、これらをとうしていえるのは、ドラマの整合性よりも、お客さんに踊りを見せることに要点があるということです。
 次にマイムの問題。ここではプロローグのカラボスのケースを取り上げましょう。オーロラ誕生の祝宴の招待客名簿からカラボスは漏れてしまいます。それを怒ったカラボスは、祝宴に乗り込み、オーロラは将来糸紡ぎ針を指に刺し、死ぬ だろうと呪いをかけます。リラの精はカラボスを追い払い、そのようなことはありません。ただ眠るだけと説明しますが、王はこれからわが国では糸紡ぎ針を使うことを禁止する、それを破ったものは処罰すると宣言するはずなのです。ところが実際の舞台では、どう一生懸命注意していてもこのようなマイムをしているようには見えないのです。ただ分かるのはカラボスが怒っているらしいこと、リラが追い払うこと、そして王が困惑しているらしいことぐらいです。ここがはっきりしないものですから、続く第1幕の冒頭に3人の女性が針をもっているのが見つかり処刑されそうになる意味がピンときません。さらに付け加えると、女王の優しい心が王の怒りをとき、女性たちが許されるところのマイムもはっきりしていないのです。
 マイムについては、前の「白鳥の湖」や「ジゼル」についても書いたことですが、形式的なマイムをやめるというのは理解できなくはないのですが、それが意味のよく分からない動きに置き替わるだけでしたらかえって逆効果 になるだけです。むしろ、いかに紋切り型のマイムにリアリティをもたせるか、心をこめるかを工夫することのほうが重要ではないでしょうか。
 こういうことにこだわるのはお前だけだという声も聞こえてきそうです。しかし、私は古典においても、それがいくらすばらしいものであっても、踊りを見せるだけでなく、ドラマとしての整合性をきちんとして作品のもつ意味を的確に表現し、観客に伝えることが真の感動につながると思っています。
 つい3~4日前に、たまたま新幹線のなかであるバレエ関係者に会いました。席が2列ほど離れていたのですが、隣のおばさんの好意で並んで話をしてきたのです。その彼のことばで「この間スイスで「ジゼル」を見たけど寝てしまった」と。なぜと聞いたら「マイムがいいかげんでいやになって」といろいろと例を上げてくれました。彼は私のホームページを見ているわけでもなく、その時にマイム論をしていたのでもないのに、このような話をしてくれたのです。こういう人が他にもいるということで・・・。
 舞台から意味不明でなく、棒読みでもない、真に心のこもったせりふが聞こえてくる、こういう演出がバレエにも必要ではないでしょうか。




掲載されている評論へのご意見やご感想を下記連絡先までお寄せ下さい。
お寄せ頂いたご意見・ご感想は両先生にお渡しして今後の掲載に反映させて頂きます。
また、このページに関する意見等もお待ちしております。
 
株式会社ビデオ
〒142-0054東京都品川区西中延1-7-19
Fax 03-5788-2311
video@kk-video.co.jp