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(2012.7/5 update)

平多宏之 Garden vol.23

イキイキと輝いて、踊る喜び、楽しさを伝えるのは高い水準の表現力と技術を持つ子供たち。
”かやの木芸術舞踊学園”は常に観客の心をとらえる作品を発表し続けている。その学園長として舞踊界を牽引する平多宏之氏に児童舞踊の魅力を聞いた。

偶然に導かれて児童舞踊の道へ

日本独自の児童舞踊は長い歴史があります。今、バレエの指導者となっておられる先生にも児童舞踊を最初に習ってからバレエに進んだ方が何人もいらっしゃいますが、平多先生はどのようなきっかけで児童舞踊を始められたのですか?

私の生まれた木曽の上松は、昔は娯楽があまりなくて地歌舞伎、村歌舞伎が盛んで、私の父はその師匠で教育委員長も25年していました。私は小さい頃からそれを見ていて、姉も日本舞踊をやって御園座の舞台に立ったりしていまして。

厳格な教育委員長のお立場で、あの時代に日本舞踊を習わせるのはとても芸事に理解がおありだったんですね。

そうですね、両親は偉いなと思う。私も踊りが好きだっていうことは自分でわかってました。
平多正於先生のところで指導者になっていた平多武於という人がいまして、武於先生は上松町の先輩で、私が子供の時によく遊んでくれた人なんです。偶然なんですが、その頃私は畜産技術員で名古屋のほうで仕事をしていました。ちょうど上松の役場で技術員が1人足りなくなって、私が役場に入ることになった。その3日か4日か前に武於さんと会った時「あんた何しとるの?踊りやらんの?」という話になった。「どういう踊り?」と聞いたら、「子供たちの踊りでいろいろな講習もあるんだよ」と。
それで心が動きました。でも父に言ったら怒るに決まっているから母にちらっと話をした。
すると母が「人生は二度とない、あとで後悔するよりは、あなたがやりたいと思ったならやってみれば。やりなおしはいくらでもできる。でもお父さんには前の日まで言いなさんな」と。
それで荷物を全部送っちゃってから話をした。親父は怒りました。どれだけあんたにお金を使ってるか、と(笑)。畜産は器材がすごく高かったので。家には二度と入れん、敷居をまたがせん、と破門状態で出て行ったんです(笑)。

そして東京の平多正於舞踊研究所へ。

あとで父親が来て、平多先生のところが教育的なことをやっていて、講習会も小学校、中学校と広く活動していることがわかって、それならと敷居もまたがせてもらえるようになったんです(笑)。
平多正於研究所が全盛の時だったから、生徒が2000人いまして。もちろん日本で一番、教室は115ぐらいあった。昭和35年ぐらいのことでした。

戦後の日本が、少しずつ落ち着いて景気も上向いてきた頃ですね。

そうそう経済成長が始まった頃です。当時は平多正於のところにいた指導者は40人ぐらい。
東京新聞の児童舞踊コンクールでは正於先生が一位をとり続けていた。先生も厳しかったけど、そういう時にいられたのがラッキーだったと思います。全国講習では北海道から沖縄まで回っていましたし。

児童舞踊の起こり


児童舞踊の起こりってわかります?昭和の初めに島田豊という人が、学校で子供達が表現力がない、表情が暗いのをなんとか元気にしたいとお遊戯をあてぶりなんかで教えていると、それをやっかむ先生たちが教育委員会に言いに行った。
教育委員会は軍国主義の風潮のなかで「あなたは男の子にまで踊りを教えているそうじゃないか。教育をとるのか踊りをとるのか、どっちかにしろ」と。豊先生は、「私はそんなわからん教育委員会のもとで教育をやるつもりはありません、踊りをとります」と徳島から大阪に出て教えていた。
これは実際にあったことですが、昭和天皇が大阪に視察にみえて次の会場へ移動する時でした。豊先生が子供達を集めてSPレコードで音楽かけてやっていたら、陛下が通りかかってピタっと止まって2階へ向かって歩き始めた。

 

周りが陛下、陛下と止めましたが、天皇陛下が入ってらしたので、豊先生も子供達もみんなびっくりして直立不動になった。陛下は続けてくださいと言って20分間見てらした。
陛下、時間ですといわれると、陛下は島田豊の手をとって「これから教育はこういうことをやらなきゃいかん」、そして習いに来ている子供達に手を添えて「楽しいですか?頑張りなさいよ」と。その子供達は一生自慢にした。僕がこうやって覚えてしまうくらいに豊先生から聞きました。
新聞には視察の写真じゃなく、豊先生と握手しているところが出た。そうしたら教育委員会は、全国の先生方に広めなさいと講習会が始まった。島田豊がずっと全国回って教えていると、全国の先生方が島田に続けとばかりに教職を辞めて、舞踊家に転向したんです。
それで児童舞踊は戦前は教育舞踊といわれました。

先生が、直にお聞きになった天皇のエピソードは有名ですね。

そして島田先生は大阪から東京へ出てきて当時で3億ぐらいのビルを建てました。
講習会ではどの会場も毎日何百名と集まった。私が大分で教えていた時、今日は集まりが悪いなと思ったら、島田先生のところとぶつかって向こうは600人、こちらは30人(笑)。お昼休みに島田先生が来て頑張れよと声をかけていただいたのを覚えています。平多正於舞踊研究所では、おかげさまで身体が柔らかかったもので、私は教えることも踊ることも好きで。

 
平多宏之

平多宏之 Hiroyuki Hirataかやの木芸術舞踊学園(舞踊ゆきこま会、平多宏之・陽子舞踊研究所)主宰。
※1970年かやの木芸術舞踊学園(舞踊ゆきこま会、平多宏之・陽子舞踊研究所)を中津川市に創設
※1971年より東京新聞主催全国舞踊コンクールに参加し数々の賞を受賞する
第1位、文部科学大臣賞、東京都知事賞(15回)協会賞(43回)指導者大賞(1回)団体奨励賞(12回)童心賞(6回)高田せい子賞(1回)入賞(102回)入選(54回)入賞敢闘賞(9回)入選敢闘賞(2回)
※2004年よりこうべ全国洋舞コンクールに参加
第1位(1回)第2位(2回)第3位(3回)第4回(2回)第5位(3回)第6位(2回)入賞敢闘賞(8回)入選(21回)
※毎年各地区(現在、中津川・瑞浪・多治見・関・小牧の5地区)にて定期発表会を開催
※ 各賞受賞
1984年 島田豊賞 (㈳全日本児童舞踊協会)
1989年 岐阜県芸術文化活動等特別奨励賞
1990年 特別賞(㈳全日本児童舞踊協会)
1996年 岐阜県芸術文化奨励賞
2002年 岐阜県国際交流顕彰
2003年 中津川市民栄誉賞 第1号受賞
2004年 岐阜県民栄誉賞
2005年 チャコット賞
2007年 教育賞(㈶松山バレエ団)
2011年 功労賞(㈳全日本児童舞踊協会)

 
林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、'80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。