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(2013.5.1 update)

堀内元・堀内充 Garden vol.25

米国から一時帰国した堀内元、日本を拠点に活動する堀内充の兄弟が久しぶりに顔を合わせた。
かつての“芸術の子どもたち”が今も変わらず示すのは、驚異の身体能力、少年のようなさわやかさ、そしてバレエに寄せる純粋な思いである。

Interview,Text : 林 愛子 Aiko Hayashi
Photo : 長谷川 香子 Kyoko Hasegawa
バレエスタジオHORIUCHIのスタジオにて

 

バレエが好きだから学業の両立では悩まない

お二人が舞踊家のご両親のもとでバレエを始めたのは有名ですが、途中でレッスンがイヤになったことはなかったんですか?

元・充(顔を見合わせて)なかったよね。
充 昭和46年にここ(西麻布)に父がユニーク・バレエ・シアターを開いて。
元 最初はバレエ団の大人ばかりで、母が児童科を始めるので充と二人でのぞいてみて、やってみよう、と。姉がすでに習っていて、せっかくこんなスペースがあるんだから、と(二人、顔を見合わせて笑う)。すぐ近くに公園があって、よく野球をやっていたんですが、雨が降った時にはこのスタジオで動くのがいい。バレエはそんな感じで始めました。

発表会を含めて、初舞台はいつですか?

元 小1からはじめて、このスタジオで、初めての発表会。それから牧阿佐美先生の橘バレエ学校でジュニア・バレエの第1期生として毎週日曜日にレッスンに行って、その公演がNHKホールで小学校3年生のときにあって、それが初めての大きな舞台でした。
当時はとにかく男の子がいなかった。だから充と二人でいたのがよかったんだと思う。女の子はパワフルで30人ぐらいいるとビビッちゃうから(笑)。


 

学校の勉強との両立で悩んだことはありませんでしたか?

充 バレエが好きでした。今の男の子たちもそうだと思うけど、これだけ魅力がある習い事っていうのはなかなかない。確かに両親からは厳しく指導されたけど、それ以上に好きでやっていました。
元 バレエのできる子は学業とも両立できる。僕も指導者になってわかります。バイオリンもピアノもそうですが一生懸命練習すればうまくなる。100やって90は自分にかえってくるから、それでみんなはまりこむんです。ほかの人間関係なんかだと100費やしても30ぐらいしかかえってこなかったりするけれど、バレエは違う。それで僕たち、こんな歳まで踊っているんだよね(と二人、顔を見合わせて)。
充 子どもの頃、牧阿佐美先生、服部智恵子先生、清水哲太郎先生にやさしくしていただいたことが強く印象に残っています。学校の先生や大人は冷たいのに、なぜバレエの先生ってこんなに温かいんだろうって子どもながら不思議に思っていた。でも最近、ああ皆さん芸術家だったんだ、と。単なる教育者や社会の大人ではなく、先生方はバレエを愛し、芸術を愛しているから、僕ら子どもたちにも芸術家の道を歩んでもらいたいという気持ちをもっていらしたんだ、ということがわかりました。

自立心旺盛な兄、思春期真っただ中の弟

お二人はまさに“芸術の子どもたち”だったわけですが、双子ということで、知らないところで反応し合っていたなんていうことはありました?

元 ないです(笑)。何かについて、おまえもそう感じていたのっていうことはあるけど、僕は海外に暮らしていたしテレパシーなんてことはまずない。

よく聞かれることだと思いますが、比較されたことはおありでしょう?

元 一緒にされるのがイヤだった(笑)。年賀状でも姉は1人で1枚なのに、堀内元・堀内充って一緒に書いてある。特に好きな女の子から年賀状が届いたりすると、これは俺のだよって取り合いをして(笑)。
充 バレエでも二人の踊りというのは少なくて、子どもの頃から大人のなかで育てられて一人ひとり評価されているから、ふつうの生活でも一人の意識が強かったのかな。でもやっぱり偏見で双子を見ている社会とはギャップがあったかもしれない。

それで思春期に悩んだことは?

元 かえって僕がローザンヌ賞とってアメリカに行っちゃったでしょう。それがよかったのかもしれない。まさかそのまま30何年こうやって離れて暮らすことになるとは思わなかったけれど。
充 元のほうが、双子から抜け出すためには自分が先にリードしていかなければと思ったんでしょう、早く一番になって。その時、私は準決選で落ちた。彼は大人になろうという自覚を持って自立心も強かった。元が先に立っていってインタビューを受けている時、私がレッスンをさぼっていたって彼は言う(笑)。元は中学受験でも玉川学園に主席で入った。学校からは、二人一緒に入学させたいから、もし一人が悪かったら二人とも落とすといわれていた。それで元が私に、おまえちゃんとできたんだろうなって(笑)。元があまりにもできたから二人一緒に入学できたのだと思う。

堀内 元
 

留学先にアメリカを選んだのは?

元 横井茂先生が文化庁在外研修員の1期生で、父が2期生で米国に行きました。それでニューヨーク・シティ・バレエ、バランシン、ロビンスの話を父からよく聞いていたので憧れたんですね。

元さんはその先駈けですが、やはり米国の水が合ったということですか?

元 バレエも好きだけど、アメリカという国は好きですね。高校、大学も向こうで卒業、アメリカ人とも結婚しました。

そのあとアメリカにいらした充さんにとっての発見は何ですか?

充 私はローザンヌ賞が1回ダメで、高校時代は学業とバレエとの新たな両立があったんですが、父のもとでやらせてもらった。その間、他のコンクールでも入賞させていただいて、そのあとニューヨークに遊びに行くと、双子の兄はニューヨーク・シティ・バレエで華々しく主役を踊っていた。やっぱり日本ではなく海外でしっかりと学ばなくてはいけないなと実感したんですね。それで18歳でローザンヌ賞を受賞し、高校3年の最後の年齢でニューヨーク留学を決心しました。バレエはアメリカだけじゃなくてヨーロッパにもあると思ったけど、ローザンヌの主催者の方がアメリカへ行きなさい、と。そこでアメリカのバレエは素晴らしいってわかりました。まだまだ当時の日本は、バレエに対する情報や正確な視野はなかったから、自己流でバレエを教えていた先生も多かったし、明確なクラシックのオリジナル作品も少なかった。そういう意味では、海外に出て芸術としてのバレエにしっかり向き合えたというのはいい経験でした。


堀内 充
 
 
堀内元

堀内元 Gen Horiuchi
堀内完を父とし、6歳からバレエを始める。1980年ローザンヌ国際バレエコンクールスカラシップ賞を受賞、スクール・オブ・アメリカン・バレエに留学。1982年、ジョージ・バランシンに認められ、ニューヨーク・シティ・バレエ団に日本人として初めて入団を許可される。その後アジア人として初めてのプリンシパルに昇格。バランシンの数々のレパートリーを踊る。ブロードウェイミュージカルにも出演。CATSでは、ブロードウェイ、ウエストエンド、東京と3都市に出演。長野オリンピックでは、開会式の振付も手掛ける。現在、米国セントルイスバレエ団の芸術監督兼プリンシパルとして、バレエ団及び付属のバレエ学校の運営にも携わっている。1993年より過去5回に渡りローザンヌ国際バレエコンクールの審査員も務めている。

 
堀内充

堀内充 Jyu Horiuchi
堀内完、牧阿佐美、スタンリー・ウイリアムス、アンドレイ・クラミフスキーに師事。モスクワ国際バレエコンクール銅賞、ローザンヌ国際バレエコンクールスカラシップ賞を受賞、スクール・オブ・アメリカン・バレエへ留学。帰国後、自らが結成したFootlight Dancersとして、また近年からは堀内充バレエプロジェクトと題して自身の公演を行っている。1994年には第9回青山バレエフェスティバル芸術監督を務めた他、新国立劇場バレエ団、佐多達枝バレエ公演などバレエ・オペラ・ミュージカルに出演。振付家としても作品を多数発表し、アメリカ・フランス・南米・韓国・中国に招かれている。また、大阪芸術大学舞踊コース順教授、玉川大学芸術学部非常勤講師、日本音楽高校バレエコース特別講師、京都バレエ専門学校講師の他、国内の主要なバレエ・ダンスコンクールの審査員も務めている。1990年村松賞、1994年グローバル森下洋子・清水哲太郎賞受賞。

 
林 愛子 (インタビュー、文)
舞踊評論家 横浜市出身。早稲田大学卒業後、コピーライター、プランナーとして各種広告制作に関わる。そのかたわら大好きな劇場通いをし、'80年代から新聞、雑誌、舞踊専門誌、音楽専門誌などにインタビュー、解説、批評などを寄稿している。
長谷川 香子 (フォトグラファー)
ステージフォトグラファー 日本写真芸術専門学校 広告・肖像科卒業後株式会社エー・アイに入社。飯島篤氏のもとで舞台写真を学ぶ。幼少時より習っていたクラシックバレエを中心にコンテンポラリー等多くの公演の撮影を経験。現在フリーで活躍中。